河野談話を守る会のブログ2

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さて戦争は俺達の天下だ!上に立つ軍人たちのゼイタク三昧




小俣行男著『戦場と記者』冬樹社、1967年発行。奥付によると、小俣は「昭和11年3月、読売新聞に入社。昭和13年1月、従軍記者として中支戦線に特派され、中支、南支、仏印等の各戦線に参加。第二次大戦勃発とともに、マレー、タイ、ビルマ方面に従軍」した。

昭和16年8月ごろ、仏印サイゴン
「日本の軍人はタタミのお座敷がなければ夜も日も明けぬとあって、陸軍はショロン寄りに、日本料亭を開店させた。広東にあった日本の料亭を持ってきたもので、そこには日本の女をたくさん連れてきていた。これをみた海軍も負けてはいない。ダカオ寄りに純日本式な料亭を開いた。海軍の工作隊が動員されて、日本式の玄関、丸窓のある座敷を作りあげ、女は大阪北の新地の芸者十余名を飛行機に乗せて連れてきた」「元帥のためには、特に専属の日本美人を広東から連れてきて、官邸の近くに住ませているとのことだった」(256ページ)


ビルマのラングーン
 「その後ビルマには陸軍専用の料亭がたくさんできた。なかでも久留米からやってきたという料亭は、芸妓、半玉、女中、コックはいうまでもなく、髪結いさんから仕立屋、洗張り屋、婦人科医まで総勢150人、タタミから座布団、屏風、会席膳一式まで海路はるばる軍用船で運んできたといわれる」(335ページ)



小松延秀著『義愛公と私』台湾友好親善協会、1989年発行。奥付によると、小松は「昭和14年、高等試験行政科合格。拓務省に採用となる」「昭和17年、海南警備府警察隊長となる」。
(その2)昭和17年、中国・海南島



海南島は海軍が占領していた」「私は(台湾総督府から)海南島に派遣された警察官を統轄する海南島警備付警察隊長として、浜崎隊長の後任として赴任した」「士官以上の行く慰安所は総檜造りの御殿のような建物だが、帳簿をみると、それが〝倉庫〟と記載されている」(115ページ)



藤崎武男著『歴戦1万5000キロ』中公文庫、2002年発行(単行本、中央公論新社、1999年発行)。藤崎は、「昭和16年7月に、陸軍士官学校を第55期生として卒業。歩兵第227連隊に赴任」「野戦小隊長、初年兵教官、連隊旗手、そして第一中隊長」
昭和19年、中国・山西省

「外出組が真っ先に訪ねるのは、大体、ピー屋である。遊郭と称するにはほど遠い設備の、いってみれば、簡易バラックの売春宿である。このピー屋は幕舎から2キロばかり離れた臨ワイ関の街外れにあった」(99ページ)

昭和20年1月ごろ、北部仏印のランソン

昭和20年3月ごろ、南部仏印のショロン。
「兵舎の筋向いには『春の家』とかいう名の日本料理屋があった。昼間から三味線太鼓の陽気な音とともに、日本女性らしい嬌声が聞こえた。遊んでいるのは、仏印全土をほぼ制圧した日本軍の将校か、商社マンであろうか。戦争などどこ吹く風だった」(415ページ)

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黒田秀俊著『もの言えぬ時代』図書出版社、1986年発行。黒田は、昭和17年10月、陸軍報道部企画による主要雑誌編集長らによる南方占領地視察に参加する。
(その9・1)昭和17年12月ごろ、インドネシア・バタビヤ。


街はずれに近いマンガライというところには、白人の女たちを収容している将校専用の慰安所も設けられているという。敵性国の婦人たちで、生活の途に窮したものは、強制的にここへ入れられて働かされるのだそうである。『なかなかきれいなのもいますよ。もっとも、そういうのはたいてい参謀の奴らがひとり占めしていますがね』と軍医はいった」(156~157ページ)

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三国一朗編『昭和史探訪4』番町書房、1974年発行。「共栄圏の虚像・軍政」と題して三国と対談した黒田秀俊の話。黒田は〔その9〕でも紹介したが、それと同場面。
(その19・1)昭和17年12月ごろ、インドネシア・バタビヤ。
「(連合国人の婦人や子供に対する取扱いはどうでしたか)それは『敵性国人』だからというので、街の一角を鉄条網でかこって、その中の住宅に集めて収容していました」「そこに収容されている人たちの中には、当然生活の面で苦しくなってきますから、時計やパーカーの万年筆など持ち物をどんどん売るんですね」「その売り食いも、とことんまでいくと、女の最後の売り物はきまっているでしょう。マンガライという所に、そういう女だけを集めている一角がありました。そして売春をさせるんです。『軍慰安所』という看板がかかっていました。将校用の慰安所というわけで粗末な高い板塀をめぐらして、そこにやり手婆さんがいるんですよ、日本人の」(143~144ページ)

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麻生徹男著『上海より上海へ』石風社、1993年発行。麻生は、昭和12年11月、陸軍衛生部見習士官として応召し、中国各地で兵站病院に勤務する。その後、昭和17年1月からニューブリテン島・ラバウルで勤務



昭和14年、中国・九江。
「日本軍に陸続、随行した日本人、しかも九州の民間人がどっと店を構えたりして、街はしだいに賑やかになった。中に1軒の朝鮮出身美人姉妹のバーがあり、何でも日本軍第六師団の高級参謀が、駐屯各地を連れ歩いている妾であると噂されていた。因みに、このような高級将校の私行は、南海の果てラバウルにても同様で、海軍高級参謀が司令部付として女事務員を連れて来ていて、戦況が危うくなると、さっさと飛行機にて内地に帰らせているような一幕もあった」(129ページ)

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石田新作著『悪魔の軍医』山手書房、1982年発行。石田は、昭和17年10月、陸軍軍医中尉としてビルマに出征し、龍兵団第四野戦病院に配属



昭和18年5月ごろ、ビルマ・メイミョウ。
「メイミョウには、中部ビルマ駐屯の青年将校たちの憧れのマトたる料亭『翠香園』がある。日本の酒が飲めて、日本の芸者が酌をしてくれて、その芸者がそのまま『一夜妻』になってくれるのである」(129ページ)
「翠香園は、九州にある大きな料亭の出店である。日本から派遣された芸者を20人あまりもかかえており、そのあでやかさといったら、とても前線にある兵士用の慰安施設の比ではなかった」「この男のパラダイスへ、しっかり突撃一番を握りしめて、目ばかりギラギラ光らせて、せかせかやってくる客など一人もなかった」「この料亭の前には、夜になるといつも赤や黄の旗をつけた乗用車が、ずらりとならぶ。赤い旗は佐官旗で、少佐、中佐。黄色い旗は将官旗で、少将、中将の専用車をあらわしている」「この翠香園は、佐官・将官にとっての天国であり、その天国ぶりについては、戦場においてすら芸者の『落籍』が行われうるという、超戦場常識において裏づけられていた。落籍させたのは、牟田口中将である。この司令官の得意満面は、ついに翠香園の芸者ナンバーワンを司令官専用とし、なんと、軍司令官の官舎で夫婦同然の暮らしをしていた……と、これは噂であるが、おそらく事実であろう」(138~140ページ)

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野口省己著『回想ビルマ作戦』光人社、1995年発行。野口は、昭和18年1月、陸軍第56師団参謀、19年4月、第33軍参謀として、ビルマ作戦に参加


昭和19年9月ごろ、ビルマ・メイミョー第33軍司令部


ラングーンの方面軍では、翠香苑という料亭を抱えており、軍でも翠明荘という料亭をかかえていた
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林唯一著『爆下に描く』中公文庫、2000年発行(底本・国民社、1943年発行)。野口は、昭和17年8月、海軍報道班員としてラバウルに着任した。
(その14・1)昭和17年8月ごろ、ラバウル
「私はテーブルの上で地図を写していた。そこへ、本場君と同じ日映の小畑報道班員がはいって来て、これから山へ案内しようという。『少し遠いが、眺望のいいところです。林さんも見て置かれるといいと思うんです。自動車を都合しましょう』。本場君とは特に親しい関係でもあるだろうが、現地の報道班員の間では、こういう接待や世話の交換が互に行われているらしかった」(108ページ)
 この文章中、「山」というのは、底本では伏字になっていたらしく、文庫本で復刻し、同書の注記では、「ラバウルの士官用慰安所のこと。『山の家』とも言った」(同ページ)とある

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徳川夢声著『夢声戦争日記(2)』中公文庫、1977年発行。夢声は、昭和17年10月、慰問団の一員で、シンガポール方面に出かける。


昭和17年11月、仏印・サンジャック。
仏印サンジャックというところ、仏蘭西人たちの避暑地だそうで、今は流石に海浜の豪華ホテルも閑散である」「安南人の店に入り食事をする」「私たちが食事をしてると、大柄な日本女が2人、浴衣を着て我々を見物に来た。何所か山の手辺の奥さんみたいに落ちついている。例の慰安婦という人たちであろう。--あたしたちも、戦争遂行に、身をもって協力しているんだ。という自信があるせいか、少しも悪びれた所が見えないには感服した。御化粧も至極あっさりして、健康的に見えた」(108~109ページ)

)昭和17年11月、シンガポール
「11月11日(水曜、暁雨後晴、酷暑)」「4時頃、偕行社行」「総参謀長に、あいさつ」「演習終りて大宴会。私は2号卓子、少将と同席。日本酒大和部隊の酌」
「(同日の項)註、次に御覧を願う一文は、日記ではない。昭和22年の夏、一種の懺悔録として書いたものである。11月11日夜の飲みツブレを境として、私は、完全に陸軍を慰問する熱意を失った。もう、我慢がならなくなったのである」「どうして慰問の熱意を失ったかを、次々に記したいと思う。前記〝大和部隊〟なるものだけでも、私は軍が厭になった。これは若き大和撫子の部隊であった。彼女たちは、皆ダマされてこんなところへ拉致されたのである。--若キ愛国ノ女性大募集。--南方ニ行キ、皇軍ニ協力セントスルノ純情ナル乙女ヲ求ム。--大和撫子ヨ、常夏ノ国ニ咲ケ。というような、勇ましく美しい文句に誘われて、気の毒な彼女たちは、軍を背景に持つゼゲン共の口車に乗せられ、高らかな理想と、燃ゆるが如き愛国の熱情と、絢爛たる七彩の夢を抱いて遥るばると来たのである。軍当事者とゼゲン師どもは、オクメンもなく、娘たちの身元を調査し、美醜を選び、立派な花嫁たるの資格ある処女たちを、煙草や酒を前線に送るくらいの気もちで、配給したのであった。なんたる陋劣! なんたる残酷! --あらっ、こんな約束じゃなかった。と気がついた時は、雲煙万里、もうどうしようもない所に置かれていた。その1部隊が、この偕行社で酒席の芸妓代用品とされているのだ。お酌をやらされる。手を握られる。お尻をなでられる。接吻は腕力で強請される。--が、そんなナマヤサシイことでは、大和部隊の任務は完遂されたのでない。ちゃんと、宿泊の設備アリだ。中には諦めて、唯々諾々、皇軍に協力している娘もあるようだ。中にはまた、寧ろ嬉々として毎夜を楽しむという、モトモト不良性の連中もあったかもしれない。然し、--何度も自殺しようかと思いましたの。と、涙をふきつつ、(夢声らの慰問団の一員として)慰問に来た同性の彩子嬢なり、みどり女史なりに、悲惨な身の上を嘆く娘さんたちは、実に可哀そうではないか」「ホテルに帰ってから奥山彩子嬢に聴いた話であるが、この夜、彼女と卓を共にした若き士官が、『(慰問団の)藤原チタカというのは、一寸可愛い顔をしとるが、あれは未だ子供でダメだろう。うン、あの豊島珠江という女は、なかなか面白そうなやつだな。アレをどうだ、今夜、オレの部屋へ泊りに寄越してくれ』と日常茶飯の如くに言った」「その夜、更けてから私たちのホテルに電話が掛り、『今、自動車を出すから、慰問団の若い女だけ、閣下のお屋敷へ寄越せ。男は一人も来なくてよろしい』という命令が副官により伝えられた」「この閣下こそ、威名赫々たる、総参謀長の中将であった」(126~131ページ)



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本田忠尚著『茨木機関潜行記』図書出版社、1988年発行。同書によると、本田は、陸軍特別操縦見習士官の南方要員として、昭和20年6月初旬、昭南(シンガポール)にたどり着く。茨木機関に配属される。敗戦後、スマトラに移動し、独立闘争への加担・残置諜者をめざす。本田ら南方要員の回想。
(その28・1)昭和20年、昭南。
「日本軍の後には料亭が従うといわれるくらいで、驚くほどの数の料亭が進出してきていた。これは昭南に限らず、南方占領地域の主要都市では、みなそうであった。もちろん戦前からのものもあったが、大多数は占領後に進出してきたものである。一番盛んなときは、東京から来た芸妓が昭南に200人いたという」「料亭の繁栄は、日本軍の敗勢と関係がなかった。末期的症状の料亭の繁栄を見るに見かねて、方面軍参謀部第一課(作戦)から、料亭をつぶせという強硬意見が出た。すると、民間の料亭を閉鎖するなら、軍の慰安所もやめてしまったらどうだ、との反対意見が二課(情報)から出て、結局、沙汰やみとなった」(12~13ページ)

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大石淳子ら編『白の墓碑銘』桐書房、1986年発行(医療文芸集団編『白の墓碑銘』東邦出版社、1968年発行の新装版)。同書の「第二部手記編」中、江川きく著「撃沈」の一節。昭和19年、江川は、軍事保護院派遣軍属看護婦として、高雄海軍病院、セレベス島の診療所を経て、昭和20年には、本来の目的地であった中国・海南島の三亜海軍病院に着く。
(その30・1)昭和20年、中国・三亜。
「外来勤務に代わって初めての日だった。その日は、テントで特別の受け付けがつくられ、産婦人科の軍医が出張してきた。やがて、4台のトラックに満載された100人をこす女たちが運ばれてきた。日本中が地味な色のモンペ姿に統一されているというのに、この人たちは、色とりどりの着物を着流しにしたり、すその長い朝鮮や台湾の服を着ていた。いったいこの人たちは誰なのだろう。そして、何が始まろうというのかしら。私がキョトンとしていると、担当の衛生兵が、慰安婦の検診なのだと教えてくれた」
「いよいよ検診が始まることになって、ふと衛生兵の机の上を見ると、慰安婦の名前の上に、『将校用』『兵隊用』『軍属用』と書かれてある。『これ、どういうこと?』『ああ、これか。将校用は日本人、兵隊用は朝鮮人、軍属用は台湾人だとよ……』」「それから毎木曜日、私は慰安婦検診の介助をつとめねばならなかった。そうしてみると、部隊を中心にして、病院、慰安所、その他の遊び場が、ぐるりととりまいており、部隊の移動にともなって、これらの施設もついてまわっているということ、慰安所は、将校が『海南荘』と呼ばれる立派な建物なのに、それ以外はバラック建ての、カーテンで仕切られただけの粗末な部屋だということなど、私にとってはまったく驚くことばかりが、次つぎとわかってきた。将校は、〝おめかけさん〟と呼ばれるオンリーをつくって海南荘の一室に住まわせ、従兵に世話をさせたりしていた。彼女たちは、女の目からもきれいだと思える人が多く、小ぎれいななりをして道をいそいそと歩いていた」


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熊沢京次郎著『天皇の軍隊』現代評論社、1974年発行。同書のあとがきによると、中国侵略の具体的なありようについて、北支方面軍第12軍第59師団を例にとり、当時の直接関係者たちの証言でまとめたものという。なお、熊沢は筆名で、本多勝一と長沼節夫の共著(岩波新書『中国侵略の証言者たち』)

済南の西
「『偕行社』という組織も売春業をやっていたという。偕行社は、将校のみを会員とし、得意先としてさまざまな商売をするところで」「ここに出入する将校には自分だけの特定の『抱え女』をきめている者が多かった」(259~260ページ)

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「三度びっくりしたことは陸海競って専用料亭を持ち,日とともに日本の女の子が殖え[引用者注:原文ママ],いやな言葉だがいわゆる慰安所という,お女郎屋が雨後の筍のようにニョキニョキ出来てゆくことだった.」

「それはともかくとして,ラングーン一流のクラブをいただいて,そこに陣取ったこの一隊は総勢150名になんなんとする大部隊で,芸妓,半玉はもとより女中,下働き,料理番. これまではわかるがあとが凄い. 髪結いさんに三味線屋,鳴り物屋,仕立屋に洗張屋にお医者さんまで,これが婦人科兼泌尿器科医であることはもちろんのこと,それに青畳,座布団,屏風,障子,会席膳一式まで海路はるばる監視哨つきの御用船で,つつがなくラングーンに御到着になったのだ.」

「湿気の多いビルマでは三味線や太鼓も鼓も,こわれやすいし,御相手がお相手で,相当の破損を覚悟してのことと,ビルマではおべべも汗まみれになるというので仕立屋さんや洗張屋さんの配属となったもの. それでも輜重行李から,衛生隊まで引きつれての進撃ぶりは大したものだ. それだけに,お値段も滅法おたかく相手にもしてくれなかったが,何もかも留守宅送金の僕等軍属どもには無用の長物,高嶺の花だった.」
:『改定縮刷決定版 大東亜戦争秘史●マレー/ビルマ編』(富士書苑 1954/07/25発行)p.239-p.256讀賣新聞社記事審査部主査 若林政夫「イラワジ戦記」
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〕牛島秀彦著『もう一つの昭和史③謀略の秘図辻政信毎日新聞社、1978年発行。
中国・山西省
「北京での国府居留民引き揚げ、復員交渉が進捗するにつれて、太原その他山西省各地でも1945年末から一般居留民の引き揚げがはじまった。兵隊たちは、鉄道沿線のトーチカに配置され、引き揚げ列車を見送った。この間、兵隊たちは完全無給で、ただ敗戦前と同じように、上官の命令に服従する日々であった。一方、その上官たちは、町の日本人料亭が解散し、引き揚げをはじめると、帰国途中の日本人芸者を奪い合いで将校宿舎につれこんだ。その将校宿舎には、それぞれ当番兵をつけており、当番兵は将校連の桃色生活の始末から、女の〝徴発〟までさせられた」(148~149ページ)