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読売新聞の先輩記者小俣行男が描いた慰安婦の思い出ー『戦場と記者』

 
 
まだ、千田夏光従軍慰安婦を書いて世に問う前に、軍記や戦記に描かれた慰安婦慰安所を探求しているが、今回は小俣行男『戦場と記者』である。

この著作の特徴はこの従軍記者が読売新聞の先輩記者であるということである。

現在、「慰安婦は性奴隷ではなかった」とわざわざ海外版で断り、誰への謝罪か分からないような謝罪をして失笑を買った読売新聞だが、小俣の著作には日本軍が自ら徴集した様子や騙されて慰安婦にされた日本人慰安婦の話が記録されており、「兵隊を相手に、ドン底の生活を強いられていた彼女たち」という表現からも、その生活ぶりが理解できるはずである。

もちろん、読売新聞が「いや、それでも自発的だった」と言い張りたいなら別だが、世界中の人々から「新聞の妄言」として嘲笑を浴びるのは間違いないだろう。ごく常識的に考えても、いつ戦地になるか分からない占領地に身体を売るために行きたい女性がそれほど多くいたとは考えられないだろう。元々「奴隷制度」であった遊郭にいて、楼主から有利な条件を示されたり、騙されでもしなければ・・・である。日本人慰安婦に対してさえ時折、出てくる「騙された」話は、朝鮮人や台湾人慰安婦の場合は、ほとんど全てが当てはまる。

中国人の場合は現地の村長などに女性を供出させる場合が多い。この小俣の著作にも女性の供出が描かれているが、それは「商売」なのだろうか?
銃を持った軍隊が占領し、「女を出せ」と要求してもそれは「強制ではない」というのだろうか?

すでに安倍政権とその影にある日本会議や神社勢力に同調するだけの大新聞には期待するものが何もないが、いい加減にしろよ、読売新聞。

第2の特徴は、日中戦争時の中国から太平洋戦争でのビルマまで幅広く、長期間に渡って戦場にいた人物による著作だという事だ。

もちろん当時の日本軍による検閲は厳しかったので、新聞記者と言えども軍の秘密に関することは立ちいることはできなかったし、慰安所の事は軍秘密であったから、小俣も深入りはできなかっただろう。

この点ではこれまで掲載して来た元皇軍将兵の記録を参考にして欲しい。

 
 
小俣行男『戦場と記者』冬樹社、1967

昭和11年3月、読売新聞に入社。昭和13年1月、従軍記者として中支戦線に特派され、中支、南支、仏印等の各戦線に参加。第二次大戦勃発とともに、マレー、タイ、ビルマ方面に従軍。

(奥付)


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昭和13年5月ごろ、中国・江蘇省の三倉河

村の有力者たちによって治安維持会がつくられると、(日本軍の)隊長から、さっそく『姑娘はいないか』という申し入れが行われた。治安維持会の代表者たちは、『この町には商売女はいない。しかし素人娘でもよければ、近在の村々から探してくる』とこたえた。日本側は『素人で結構、至急よびあつめてくれ』といい、数日後、十数名の姑娘が治安維持会の手で集められ、日本軍のために慰安所を開設した」
(p26)


「日本軍の)隊長から、さっそく『姑娘はいないか』という申し入れ」と書いているが、重火器を持って押し入って来た軍隊の「申し入れ」とは、「強制」に他ならないのである。


昭和13年5月ころ 中国・江蘇省の南通

「驚いたことにはここには、逸早く遊郭がつくられていたことだ。東京部隊らしく、門の入口には『吉原』と大書してあった。門を入ると中には大きな池があって、その周囲に土壁の家が並んでいた。池のほとりには若い姑娘たちが兵士と戯れていた」
(p27)
 


昭和13年5月ころ 中国・江蘇省の如コウ

「(日本軍の)警備隊がつくった慰安所をのぞいてみたら入口に憲兵が一人、手持ぶたさのかっこうで腰をおろしていた。中には14、5名の若い姑娘がいた。(如コウ城)入城直後に、城内にいた娘たちを集めて開業したものだが、敵襲がはじまってからは訪れる兵もなく、食糧も不足がちとみえて、みな青ざめた顔をしていた」
(p30)



警備隊がつくった慰安所なので憲兵が歩哨に立っていたのだろうか?
いづれにせよ「業者が造った」とは言えない事例である。



昭和15年5月ごろ、中国・湖北省の応山

武漢作戦終了後、第三師団が応山に駐屯していたため、『特殊慰安所』がつくられた。家は十数軒、ここには珍しく日本の若い女がたくさんいた。昼間は兵隊のために客をとる。夜は将校のために酒の相手をする。夜更けになると将校と一しょに寝る。それが特殊慰安婦だった」「こんな前線には、もったいないような若くて、程度のよい女たちだった。この程度の女たちなら、こんな前線へ来なくても、どこでも立派に働けると思って、そのうちの1人、丸顔の可愛い娘に聞いてみるとーー『私は何も知らなかったのね。新宿の喫茶店にいたのだけれど、皇軍慰問に行かないかってすすめられたのよ。皇軍慰問がどういうことかも知らなかったし、話に聞いた上海へ行けるというので誘いに乗っちゃったの。支度金も貰ったし、上海まで大はしゃぎでやってきたら、前線行きだという。前線って戦争するところでしょう。そこで苦労している兵隊さんを慰問できるなんて素敵だわーーと思ってきてみたら、「とい(特殊慰安所の特慰)街」だったじゃないの。いまさら逃げて帰るわけにも行かないし、あきらめちゃったわーー』。そういって彼女は私にビールをついだ。そしてタモトから小さい四角なセルロイドの札をパラパラと3、4枚出して数えた。『ちかごろは閑になっちゃってね。今日もこれっぽっちーー』。兵隊に抱かれるたびに1枚ずつ渡されるセルロイドの札、兵隊が前線に出動する直前などは15枚も20枚もあった日がつづいたといっていた」
(p172~173)



日本人慰安婦も騙されて来たという話。
当時、兵隊の慰問という誘い文句があったことが分かる。
それほど多くはないが、日本人も女衒の嘘に騙されたのである。しかし、皇軍がそれを送り返そうとした様子は無い。


昭和15年8月ごろ、中国・広西チワン族自治区の南寧

「南寧の街はずれに日本軍のための慰安所があった。広東からやって来たもので、その数は18軒、中国人の慰安婦が百数十名いた。陸軍が移動したので、彼女たちは商売にならなくなったので、広東に引きあげることになったが、そんなに乗って帰るトラックがない。車の手配がついたら引きあげさせるということになって、毎日首を長くしてトラックを待っている状態だといった」
(p203)



「10月ごろ同自治区の欽県の)兵站宿舎は南寧からの引揚げ者で超満員で、みな広東からの船を待っていた」「船が来た。私たちはそれに乗った。貨物船は南寧を引きあげてきた慰安所の女たちで超満員だった。みな広東生まれの女たちだった。18歳から22、3歳くらいまでの若い女たちで、廃墟の街に、こんなにもたくさんの娘が連れて来られていたのかといまさらのように驚かされた。兵隊を相手に、ドン底の生活を強いられていた彼女たちも故郷へ帰れるよろこびで、嬉しいのか、いずれも明るい表情ではしゃいでいた」
(p222)



昭和16年8月ごろ、仏印サイゴン

「日本の軍人はタタミのお座敷がなければ夜も日も明けぬとあって、陸軍はショロン寄りに、日本料亭を開店させた。広東にあった日本の料亭を持ってきたもので、そこには日本の女をたくさん連れてきていた。これをみた海軍も負けてはいない。ダカオ寄りに純日本式な料亭を開いた。海軍の工作隊が動員されて、日本式の玄関、丸窓のある座敷を作りあげ、女は大阪北の新地の芸者十余名を飛行機に乗せて連れてきた」「元帥のためには、特に専属の日本美人を広東から連れてきて、官邸の近くに住ませているとのことだった」
(p256)



軍のお偉いさんは、たいてい贅沢三昧であった。
もちろん例外もいたわけだが。



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昭和17年3月ごろ、ビルマのラングーン

「ある日、『日本から女が来た』という知らせがあった。連絡員が早速波止場へかけつけると、この朝到着した貨物船で、朝鮮の女が4、50名上陸して宿舎に入っていた。まだ開業していないが、新聞記者たちには特別にサービスするから、『今夜来て貰いたい』という話だった。『善は急げだ!』ということになって、私たちは4、5名で波止場ちかくにある彼女らの宿舎に乗りこんだ。私の相手になったのは23、4の女だった。日本語はうまかった。公学校で先生をしていたといった。『学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか』ときくと、彼女は本当に悔しそうにこういった。『私たちはだまされたのです東京の軍需工場へ行くという話で募集がありました。私は東京へ行って見たかったので、応募しました。仁川沖に泊まっていた船に乗りこんだところ、東京へ行かずに南へ南へとやってきて、着いたところはシンガポールでした。そこで、半分くらいがおろされて、私たちはビルマに連れて来られたのです。歩いて帰るわけにも行かず逃げることもできません。私たちはあきらめています。ただ可哀想なのは何も知らない娘たちです。16、7の娘が8名います。この商売はいやだと泣いています。助ける方法はありませんか』。彼女たちのいうように逃亡できる状態ではない。助ける方法って何かあるだろうか。考えた末に、『これは憲兵隊に逃げ込んで訴えなさい』といった。前線の憲兵は泥棒の首をきる。悪いことをした者の首に札を下げ、街路樹に縛り付けたりしている。しかしこれらの少女たちがかけこめば、何か対策を講じてくれるかもしれない。或いはその反対に処罰されるかも知れない。しかし今のビルマで他に方法があるだろうか。
若い記者たちも同情した。結局この少女たちは憲兵隊に逃げこんで救いを求めた。憲兵隊でも始末に困ったが、抱え主と話し合って、8名の少女は将校クラブに勤務することになった」(p334) 
 


将校クラブは安全なところではない。
結局は身体を売らされただろう。

 


「その後ビルマには陸軍専用の料亭がたくさんできた。なかでも久留米からやってきたという料亭は、芸妓、半玉、女中、コックはいうまでもなく、髪結いさんから仕立屋、洗張り屋、婦人科医まで総勢150人、タタミから座布団、屏風、会席膳一式まで海路はるばる軍用船で運んできたといわれる」(p335)



将校たちにとって、戦争なんて実はどうでもいい事だった。
ゼイタクができ、偉そうにできればよかったのである。
そういう将校がたくさんいたのであろう。

それにしても、戦場に運び込むようなものではないだろうに。この後ビルマは「地獄の戦場」と言われるようになり、先日の記事でお伝えしたように、慰安婦を道連れにした玉砕もあったのかもしれない。


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