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「支那人は我々日本人を以て猛獣呼ばはりを為し日本兵を以て獣兵と唱えて戦慄する」 ー 陸軍法務官が見た皇軍の姿



小川関治郎プロフィール
1875年愛知県に生まれる。明治法律学校卒。1907年陸軍省より第16師団法務部部員を命ぜらる。1922年近衛師団軍法会議法務官、兼陸軍高等軍法会議法務官及び裁判官。


小川関治郎は、陸軍法務官として高い地位にいた。

大杉栄虐殺の甘粕正彦大尉、永田鉄山を斬殺した相沢三郎中佐、二・二六事件青年将校たちの黒幕と目された真崎甚三郎大将らを軍法会議で裁いた人物である。

彼は当時の陸軍軍人同様、日本の戦争の大義を信じていた。

にもかかわらず、彼が見たものは、女を犯し、放火をして回る皇軍の退廃した倫理、不法行為であった。

「・・・放火を悪事と認めず実に皇軍として恥ずべきこと言語に絶す」

「・・・支那人は我々日本人を以て猛獣呼ばはりを為し日本兵を以て獣兵と唱えて戦慄すると聞く」

「・・・不逞極まり不軍紀も茲に至りて言語に絶す」

悲痛な叫びが聞こえてくるようだ。

皇軍への信頼がガラガラと音をたてて崩れて行く。1938年の小川の退官はそういう事ではなかったのだろうか?

彼は、その後の歴史をどう思ったのだろうか?




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     『ある軍法務官の日記』 みすず書房、2000


昭和12年11月、中国・張堰鎮。
「(昭和12年11月)14日
同所では日本軍の為に入用なる物は何にても進呈するに付暴力を以て取ることは為されぬ様願ふとの掲示を出しあるを見る、支那人の態度を知るに足る」(p28)


昭和12年11月、中国・金山。
「15日
夜9時頃憲兵特務曹長打合の為来部す。所謂陵辱事件に付」「陵辱事件とは金山附近の民家に兵3名が至りたる処、支那の男女2人居合わせたるを見て女をして腰以下を半裸体と為さしめたる上、2人にて相交接すべしと強迫強要したる事実也と」 (p38)


「23日
作戦上必要以上に民家の破壊、次で軍司令官より訓示ありし如く又自分も20日付を以て通牒を発したる如く強姦、掠奪、放火等相ついで頻発するを憂ひ之を予防せんとす。之れは戦場に於ける特別心理なるか至る所強姦を恣にし掠奪を敢てし放火を悪事と認めず実に皇軍として恥ずべきこと言語に絶す」
支那人は我々日本人を以て猛獣呼ばはりを為し日本兵を以て獣兵と唱えて戦慄すると聞く」


「25日
「昨夜3時半松岡憲兵大尉深夜にも拘らず重大事件なりとて連絡に来る。同事件は第六師団の兵5名の内1名伍長が3里程田舎の農村に至り10幾才より26才迄位の婦女を拉致し或る他の相当大なる空家に連れ込み強姦を恣にして且つ拉致するに当り55才位の女が逃げんとしたるを射殺し尚女1名に対し大腿部に銃創を負わしめその行為不逞極まり不軍紀も茲に至りて言語に絶す」(p63)


昭和12年12月、中国・湖州。
「21日
会報にて聞く。湖州には兵の慰安設備も出来開設当時非常の繁昌を為すと。支那女10数人なるが漸次増加せんと憲兵にて準備に忙しと。兵の押すな押すなの勢いにて列を為しながら先を争うが如し」(p124)


昭和13年2月、上海。
「所謂慰安所を見学す。同所には朝鮮婦人3、40名居ると。人間の裏面亦吾々の想像外なり。何事もその道にて勿論之を経営する者は日本の男なり。所謂妓夫に等しき者が興行物の木戸口とも謂う所にて切符を売り居るを見る」(p191)