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朴裕河の妙な理屈ー記憶は隠蔽されたか?


            

     1、経験と記憶を隠蔽してしまう言葉

例えば、離婚に関わる裁判があったとして、夫人が夫に殴られた様子を語ったとしよう。こういうのだ。

「私はまるで奴隷のように彼に殴られ、全治1カ月のケガを負ったのです」

残念なことだが、DV夫はいるのだからこういう事も有りうるだろう。ところでこの話を聞いた人がこういう。

「あなたは、恋愛結婚ですよね。すると夫の方と愛しあって結婚されたわけでしょ。あなたが、「奴隷のように殴られた」なんて言うとその言葉は、奴隷のように殴られた以外の経験と記憶を隠蔽してしまうのです。」

「何を言っているのだ、こいつは」と夫人は思うだろう。確かに楽しいこともあった。けれども、そんな記憶なんてどうでもよくなるほど酷い体験をしたというのに。

朴裕河の主張はこれに似ている。
彼女はこう書いている。

「何よりも「性奴隷」とは、性的酷使以外の経験と記憶を隠蔽してしまう言葉である。」
          (『帝国の慰安婦p143)


「「性奴隷」という言葉は、楽しかった記憶を隠蔽する」というのだ。

数ある「性奴隷否定論」の中でも、これほどバカげた理屈を聞いたことがない。ネトウヨより酷い詭弁である。

どうやら、彼女は長くトラウマに残るような酷い体験をした被害者たちの声には耳を傾けなかったようである。

 

          2、朴裕河の「隠蔽」という言葉に関する詭弁


「隠蔽」とはいったいどういう意味なのだろうか?

たとえば、自分が会社のお金を使い込んで、その証拠を隠滅すればそれ
は「使いこみの隠蔽」と言える。
あるいは日本政府が昭和33年米国から返還された戦時犯罪資料の一部
を国民の目に触れないように「秘密指定」すればそれは「隠蔽」であろう。

ところが朴裕河の言う「隠蔽」は決してそうではない。
すでに挺対協が発表し一般に書店で購入できる本に書いてある証言内容
をもって「隠蔽した」としている。これはどういうことかさっぱり分からなかっ
たので何度か読み返してみたが、やはり理解不能であった。
たとえばp61、p83、p143・・・などで繰り返し述べている「性的酷使以外
の経験と記憶を隠蔽してしまう・・」は、言葉の使い方がおかしいというしか
ない。

 
「これまで慰安婦たちは経験を淡々と話してきた。しかしそれを聞く者
たちは、それぞれ聞きたいことだけを選びとってきた。それは、慰安婦
問題を否定してきたひとでも、慰安婦たちを支援してきたひとたちでも、
基本的には変わらない。さまざまな状況を語っていた証言の中から、そ
れぞれ持っていた大日本帝国のイメージに合わせて、慰安婦たちの
<記憶>を取捨選択してきたのである」

なんていうのだが、むしろ逆である。ハルモニたちが名乗り出て、様々
な話をしてくれたおかげで、大日本帝国が隠蔽して来た慰安婦の真実
が、明らかになったのである。

朴の言い分ではこの関係が逆転してしまう。

こうして繰り返して使うことで洗脳法の初歩みたいに、「これまで慰安婦
真実の姿は、隠されていたが本当の姿はこうなんだよ」と印象つけようと
いうわけだが、すでに市販されている本に書かれているような内容が「隠
蔽」のわけがない。

本当の姿は最初から公開されているからだ。
朴の詭弁は、全てを逆にしてしまう。

正直、アホらしい本だった。朝日や毎日新聞が宣伝する意味がさっぱり
分からない。それにしてもこれらの大新聞を読む価値がなくなったようだ。