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朝鮮人慰安婦も普通に愛の対象になりえたのは、彼女たちがまぎれもない「大日本帝国」の一員だったからであるか?



慰安所の生活は、多くが強姦から始まった。その強姦はしばしば役得として将校たちによってなされていた。内地の遊郭で騙されて来たような娘を無理やり水揚げして、女性としての夢を諦めさせるのは、女郎屋の親父だったようだが、占領地では将校たちが女郎屋の親父の役目を果たしていた。通訳をしていた永瀬隆さんは、騙されて来た娘たちを「小太りの隊長が毎晩一人づつ」”てごめ”にした話を聞いたという
http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64975788.html。こうして始まる悲惨な生活の中でも、人によっては恋愛をしていたという記録がある。文玉珠さんのような恋愛体験はごく少ない。しかし、朴裕河はそれが何かを証明していると考えたようだ。

朴裕河の主張

「家族と故郷を離れて明日には死ぬかもしれない軍人たちを見守り、勇気(部隊ではそれを<士気>という概念で考えている)を与える役割。朝鮮人慰安婦も普通に愛の対象になりえたのは、彼女たちがまぎれもない「大日本帝国」の一員だったからである。」(p80)


日本兵と恋愛し、慰安を「愛国」することと考えてもいたような慰安婦たちの記憶が抑圧されてきたのは、彼女たちがいつまでも民族を代表する存在でなければならなかったからである。」(p166)

「愛の対象と成りえた」理由として、「「大日本帝国」の一員だったから」としている。
しかし、これは世界観の歪みというしかない。相手の立場に関係なく恋愛感情が芽生えることがあるのは、有史以来何度も繰り返されたことだろう。そもそも皇軍兵士と恋愛したのはごく一部であったし、昔の遊郭の女性がそのつらい生活を忘れるために恋愛相手(間夫)を持っていたことも古劇の題材としても伝えられている。

もし「「大日本帝国」の一員だったから」「愛の対象と成りえた」のだとしたら、次のような場合はどうなるのであろうか?

田中重男著『遙かなり戦場』私家版、1989年。著者は、昭和16年5月、岡山中部48部隊に応召入営、8月召集解除、10月姫路中部46部隊に応召入営し、北支、中支、ブーゲンビル島に転戦。

(中国にて)
「江湾鎮の街のはずれに日本兵が多勢行く現地人の慰安所があった。もともとは支那の遊廓であったのだろう。蘇州に近い美人の多い土地といわれるだけにここの慰安婦には美人が多かったらしい。連隊本部の事務室に勤務する西村兵長はここの慰安婦である可愛いクーニャンの一人に芯から惚れてしまい、入営以来の貯金の全部をはたき出して慰安所に通い続け、遂には心中するかもしれないという騒ぎとなった。同僚が必死になって説得して思いとどまらせた」(p83)


この場合、中国人慰安婦が死ぬ気の恋愛対象となったわけだが、この中国女性は、「まぎれもない「大日本帝国」の一員」と言いたいのだろうか?

さらに占領地では高級将校たちは、愛人を造り、そこから指令部に通ったりしていた。司令官クラスになると現地妻と生活を共にしていたのである。それは日本人の場合も多くあったが、現地人の場合もあった。ジャワには白馬会なるものが生まれており、白馬会については町田敬二は、
「しかるべき婦人をオンリーさんとして、しかるべくやっていた達者なトアン・トアン(旦那衆)もいた。その中に「白馬会」というのがあった。白人の婦人を専らとするグループである。」(『戦う文化部隊』)と記録している。後藤基治は白馬会、黒馬会を大宅荘一が造ったと書いており、黒田秀俊は『軍政』で、「ジャワが陸軍地域であったので、白人は陸軍が独占するところとなった」と書いている。

「まぎれもない「大日本帝国」の一員だったから」「愛の対象と成りえた」と資料は告げているだろうか?
『帝国の慰安婦の妄想的な記述は、正しい理論、理屈を辿っていない事から生まれているのである。