河野談話を守る会のブログ2

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「朝鮮人慰安婦が多かった」図表③




『兵隊画集』
番町書房
1972
富田晃弘
昭和19年10月、満州要員として、第12師団の西部第46部隊に入隊し、満州に派遣される。昭和20年1月、台湾に移動
p37
昭和19年、満州
源氏名は『椿』とか『千鳥』とか『深雪』などと古風であったが朝鮮人がほとんどであった。初年兵用のピイ屋には満人の婦(おんな)がいた。
国境の町三ブン口(東寧)は昭和13年ごろ大勢の苦力によって開発された」「町にピイ屋が15軒ほどあった。日本人の婦(おんな)がいた。ピイが足りずに下士官の喧嘩が絶えなかった
 



『シッタン河脱出作戦』
早川書房
1975


ルイス・アレン
p144
昭和20年5月
おもに朝鮮人からなるこの慰安婦の制度は、東アジア全域を通じて日本軍についてまわった特徴的なものであった。

 



優曇華の花―実録カクさんの戦争体験』
文芸社
2002

明珍格
54
昭和20年
私が終戦後、現地で知り合った兵隊さんのひとりにK上等兵がいた。彼はお酒が入ると、慰安婦の話を自虐的なニュアンスをこめて話すのが常であった。『カクさんよう!駐屯地に慰安婦のトラックが着くと、ワシはいつも衛兵で「はい、次」といって、3分ごとに交替させるのが役目だったんだ。長い行列をつくっている兵隊の列を見ては、ため息をついていた。ワシはどうなるんや、のう、カクさんよう』。慰安婦朝鮮人ばかりで、日本人の女はいなかったのかと聞くと、全部朝鮮人だったという。

 




非常に多くの将兵・記録が「朝鮮人慰安婦が多かった」としている。