どのようにして、朝鮮人慰安婦が増えて行ったか?
世間には儒教文化が栄え、その儒教の教義の一つが「貞節を守る事」であった。李氏朝鮮における良家の子女は、まるで昔のイスラム教えのように夫以外の男性に会わないようにさえしていた。やがて開国の時代になっても、強い貞節の文化が残った。そして李氏朝鮮が滅んで、大日本帝国の統治が始まった後も、乙女達によって固く守られていたのである。
ところがこの貞節な少女らに目をつけた者たちがいた。
皇軍である。
理由は主に、「性的未経験者が多いがゆえに性病の可能性が少ないこと」だろう。
少女たちは、騙されて戦地に連れて行かれ、しばしば将校に強姦、水揚げをされた。
ここではどのようにして皇軍は朝鮮の娘に目をつけたのか?を探ってみることにしよう。
いくつかの資料がその事情を教えてくれている。
▲ 「評判が良いので逐次之に代えることにした」という。
1937年から熊本野砲兵第六連隊長を勤めた藤村謙の書いた『変転せる我が人生』によれば、中国の占領地蕪湖では、
「日本女性と朝鮮人女性とが来たが後者の方が一般に評判が良いので逐次之に代えることにした。」(p110)
という。

藤村は南京、漢口などの戦闘に参加している人物である。
▲ 「肉体的にも無垢を思わせる者がたくさんいた」
命令にいわく『麻生軍医は近く開設せらるる陸軍娯楽所の為目下其美路沙□(さん)小学校に待機中の女子百余名の身体検査を行う可し』
ただちに私たち一行,軍医兵隊それに福民病院の看護婦二名を加えた名にて出かけたこれが「日支事変」以降「大東亜戦」を通じて兵站司令部の仕事として慰安所管理の嚆矢となった。
当時軍の輸送規定には兵隊軍馬の項はあっても婦女子の項はなかったのではなはだ失礼なことには物資輸送の項に該当させたりなど今から考えると妙なことであった
彼女ら「皇軍兵士」の慰問使として朝鮮および北九州の各地より募集せられた連中であった. 興味あることには朝鮮婦人の方は年齢も若く肉体的にも無垢を思わせる者がたくさんいたが北九州関係の分は既往にその道の商売をしていた者が大部分で後者の中には鼠蹊径部に大きな切開の蹊瘢を有する者もしばしばあった。(p41)
されば戦地へ送り込まれる娼婦は年若き者を必要とす。而して小官某地にて検徽中屡々見し如き両鼠蹊部に横痃手術の瘢痕を有し明らかに既往花柳病の烙印をおされし、アバズレ女の類は敢えて一考を与へたし。此れ皇軍将兵への贈り物として、実に如何はしき物(ママ)なればなり。