河野談話を守る会のブログ2

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どのようにして、朝鮮人慰安婦が増えて行ったか?







朝鮮半島は長く儒教国家であった。
すでに15世紀には鄭道伝(チョンドジョン)や世宗(セジョン)等が朱子学研究機関を設立し、性理学に基づく国家を造ろうとしている
世間には儒教文化が栄え、その儒教の教義の一つが「貞節を守る事」であった。李氏朝鮮における良家の子女は、まるで昔のイスラム教えのように夫以外の男性に会わないようにさえしていた。やがて開国の時代になっても、強い貞節の文化が残った。そして李氏朝鮮が滅んで、大日本帝国の統治が始まった後も、乙女達によって固く守られていたのである。

ところがこの貞節な少女らに目をつけた者たちがいた。
皇軍である。
理由は主に、「性的未経験者が多いがゆえに性病の可能性が少ないこと」だろう。

少女たちは、騙されて戦地に連れて行かれ、しばしば将校に強姦、水揚げをされた。
ここではどのようにして皇軍は朝鮮の娘に目をつけたのか?を探ってみることにしよう。

いくつかの資料がその事情を教えてくれている。


       ▲ 「評判が良いので逐次之に代えることにした」という。

1937年から熊本野砲兵第六連隊長を勤めた藤村謙の書いた『変転せる我が人生』によれば、中国の占領地蕪湖では、

「日本女性と朝鮮人女性とが来たが後者の方が一般に評判が良いので逐次之に代えることにした。」(p110)

という。


藤村は南京、漢口などの戦闘に参加している人物である。


         ▲ 肉体的にも無垢を思わせる者がたくさんいた」
           「皇軍将兵の贈り物として・・・・」  麻生徹男軍医



上海派遣軍の第一四兵站病院外科病棟に勤務していた麻生徹男軍医は、近く開設せらるる陸軍娯楽所のため、婦女子百余名の身体検査を行うべし」との命令を受け、慰安婦らの性病検査をした。


命令にいわく『麻生軍医は近く開設せらるる陸軍娯楽所の為目下其美路沙□(さん)小学校に待機中の女子百余名の身体検査を行う可し』

ただちに私たち一行,軍医兵隊それに福民病院の看護婦二名を加えた名にて出かけたこれが「日支事変」以降「大東亜戦」を通じて兵站司令部の仕事として慰安所管理の嚆矢となった。
当時軍の輸送規定には兵隊軍馬の項はあっても婦女子の項はなかったのではなはだ失礼なことには物資輸送の項に該当させたりなど今から考えると妙なことであった
彼女ら「皇軍兵士」の慰問使として朝鮮および北九州の各地より募集せられた連中であった. 興味あることには朝鮮婦人の方は年齢も若く肉体的にも無垢を思わせる者がたくさんいたが北九州関係の分は既往にその道の商売をしていた者が大部分で後者の中には鼠蹊径部に大きな切開の蹊瘢を有する者もしばしばあった。(p41)

軍用特殊慰安所は享楽の場所に非ずして衛生的なる共同便所なる故、軍に於ても慰安所内にて酒類の禁止されあるは寧口当然の事なり。

つまり軍の命令で慰安婦となる女性たちを診察すると日本女性は遊郭から鞍替えした年配者が多かった。しかし朝鮮女性の方は「肉体的にも無垢を思わせる者がたくさんいた」というのだ。
そこでどちらが「皇軍将兵への贈り物」としてふさわしいかというので、麻生軍医は慰安婦衛生的なる共同便所」にするため1939年に意見書(「花柳病の積極的予防」)を提出したのである。

されば戦地へ送り込まれる娼婦は年若き者を必要とす。而して小官某地にて検徽中屡々見し如き両鼠蹊部に横痃手術の瘢痕を有し明らかに既往花柳病の烙印をおされし、アバズレ女の類は敢えて一考を与へたし。此れ皇軍将兵への贈り物として、実に如何はしき物(ママ)なればなり。


誤解の無いように述べておくと、麻生徹男軍医は軍慰安所とは別の慰安施設や、音楽・映画・スポーツなど娯楽施設の設置の提案もしている。
しかし、年配の日本人慰安婦皇軍将兵への贈り物にふさわしくないとして、朝鮮半島から未経験者が徴集された原因の一つが、麻生軍医のこの意見書にあることは、簡単に想像することができる。

麻生軍医もまたそう考えていたことが書かれている。


私はのちほど軍医会同にて1文を物して、この娼婦の質の向上を要求した。即ち内地をくいつめたような者を戦地へくらがえさせられては、将兵は、はなはだもって迷惑であると。中支方面に従軍せられた方で気付かれたことと思うが、南京、漢口等の将校クラブに朝鮮婦人の多かったことも、この辺の事情に起因していると思うは、あえて私の僻目でもなかろう」
(p42)


つまり自分の意見書が朝鮮婦人の多くなった理由ではないかというのだ。

まるで自慢話のように書いているのが痛い。





 「まず軍幹部というか作戦面しか知らない中堅幹部は、最初この意見書に大した興味を持たなかったようです。しかし兵站担当のわれわれは一読して、よく書いてくれた、調べてくれたと思ったものです。柳川軍司令官も大変に注目されたと聞いていました。
  正直に言って当時、彼女らに対し公衆便所という考えが強かったのですが、兵站部がなくてはならないように、中国戦線でそれがなくてはならぬものであること、より優れたものでならぬことを考えていた高級幹部は、この意見書に大いに賛意を強くしたようです。」
千田夏光従軍慰安婦』)

おおがかりな慰安婦制度が造られたいわば黎明期、日中戦争期にこうした進言がなされたことが後の太平洋戦争期の朝鮮人慰安婦大量動員の理由かもしれない。