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国家主義者・名取洋之助の軌跡


フォトジャーナリスト・名取洋之助と言えば、岩波書店とのつながりが有名だが、実はネトウヨが好きそうな人物で、中支派遣軍の特務部とつながっていた人物であった。
1938年代、南京事件の余波が起こり、『LIFE』や『LOOK』など世界的なグラフ誌が日本軍の残虐行為を掲載するようになった。名取はこれに反発し、上海の共同租界に「プレス・ユニオン・フォト・サービス」という反蒋対外宣伝のための事務所を開いた。資金は中支派遣軍から出ている。
まっいわいる当時の国家主義愛国者であり、思想戦闘員だったのである。

名取の特徴はフォトジャーナリストとして世界にコネクションをもっていたことであり、「皇軍大勝利=蒋介石政権の弱体化」を内外に印象付けるために世界に写真を配信した。

ところが、その名取にもわずかながら迷いが生じて来る。この点を石川保昌は『報道写真の青春時代 名取洋之助と仲間たち』p95にこう書いている。

当初、日中戦争がそのように長引くとは考えていなかった名取(日中戦争の初めから、軍や日本政府も国民政府の頑強な抵抗を予期していなかった)が、不毛の戦争に気がついていくのは、上海での取材から三年後、昭和十五年の後半あたりからではないだろうか。
 日本工房はすでに国際報道工芸社と改組されていたが『NIPPON』の編集などはスタッフに一任して、名取は本拠を上海へと移し、以後、日中融和を歌う出版物の制作に打ち込む。しかしその中日融和は南京の汪兆銘せいけんが支那派遣軍の傀儡にしか過ぎぬ以上、彼が理想する日中友好など実体のないものであった。
 太平洋戦争の開戦とともに、日本軍の中国からの撤兵は一層ありえないものとなった。名取洋之助は、自らが宣伝に奔走した「聖戦」が何も生み出さなかったことをはっきりと思い知らされて、南京で敗戦を迎える。

こうして、太平洋戦争も末期になるとこんなシーンが出現したわけだ。


小柳次一・石川保昌著『従軍カメラマンの戦争』 p219~p220 新潮社、1993年

小柳は、従軍カメラマンとして、中国、フィリピン、北千島など、約5000キロを兵隊とともに歩いている
昭和19年、中国・岳陽

「名取(洋之助)さんとも漢口で別れたあと、一度、洞庭湖の近くの岳陽のあたりの停車場ですれ違いまして。名取さんは人夫を連れて、『焼くな、奪うな、殺すな』という宣伝をしておったですね。中国軍へじゃなくて、日本兵に向けての啓蒙宣伝です。もう、日本軍のやりかたがあんまりひどいので、名取さんが司令部に直訴して、そういう宣伝班を率いてあの辺りを回っていたわけです。私も、そこの停車場にペンキで『焼くな、奪うな、殺すな』と描いていたのをそばで見てました」


結局は皇軍があんまり、「焼く、奪う、殺す」のいわば三光作戦を実行するので、『焼くな、奪うな、殺すな』という日本兵に向けての啓蒙活動をしたのである。まあ、負けそうになって少しはまともな人間になったのである。そしてこの話から皇軍がどんな存在だったかが分かるだろう。近頃のウヨクさんの間では、「皇軍は世界一軍紀が正しい軍隊だった」なんていう妄想的意見も聞かれるが、アホらしくなってくるよね。