慰安婦は茎管がすり切れ爛れ、炎症を起こしても休めなかった!
会社つとめをしていた頃、私も何度か体調が悪くて休んだことがある。それは時代が変わって、日本でも人権が認められるようになったから、電話一本で簡単に休めるようになったわけだ。多分これが70年以上も前の話なら、「根性が足りん」とかいう根性論で休めなかったかもしれない。
商人、経営者たちは少しでも儲けを得るために、従業員に休暇を与えようとはしなかったからである。休暇が必要であるという常識さえ通用しなかった。どこでも丁稚や女工と言えば12時間以上の労働も当たり前であり、病気になってもコキ使うのが普通であった。
これに関しては以前書いているので読んで欲しい。
ましてや「公衆便所」としてみなしていた慰安婦をこき使わなかっただろうか?
皇軍は「お国のために闘ってくれるはずの大切な」兵士たちの人権さえ認めなかったし、ましてや公衆便所とみなした女性の人権などまったく認めるわけがない。ところがそんなことも分からない歴史家?が存在するらしい。
秦郁彦という歴史学者?はその著作である『慰安婦と戦場の性』のp273で、「彼女たちは業者にとっては前借金を払った商売道具であり、軍にとっても兵士にサービスしてもらう存在だから、それなりに遇していたはずだ。殺したり傷つけては元も子もなくなるからである。」(p273-p274)と書いている。
この理屈で言えば、普通の遊郭でも、娼妓は「元手をかけた商品として」大切にされたはずだし、それどころか多くの企業の資本家は、わざわざ募集した従業員を「それなりに遇した」はずである。そうすると歴史の中に酷い待遇の雇用関係など無かったはず・・・ということになってしまう。確かに近年になって資本家たちも、労働者の権利を無視しては企業経営が成り立たないことを理解しはじめており、酷い待遇は少なくなって来たが、いまだに途上国では虐待に近い雇用関係が存在しており、思想と精神の面では未開国である我が国でもブラック企業の存在が取り沙汰されているのが実情である。どうやら、官僚から大学教授になった世間知らずなこの人物は、戦前社会というものがどんなものだったのか、まるで理解してないらしい。とりわけ、民主主義と人権思想を弾圧し、全体主義化した1940年頃の軍国国家の中ではあらゆる人の人権が無視されたというのに、慰安婦だけは「それなりに遇した」などという妄想はどこから来るのだろうか?
以下、元憲兵の証言を聞いてみよう。
長岡純夫著 『われ地獄へ堕ちん-土屋芳雄憲兵少尉の自分史』 日中出版、1985
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(略)
月1回『検梅』があり、軍医が花柳病の有無を検査した。これには憲兵が立ち会うことになっていて、私は2回ばかり立ち会った。慰安婦たちの多くは、『茎管カタル』であった。茎管がすり切れ爛れているのである。しかし、軍医は『茎管カタル』を花柳病に含めなかった。従って彼女らは、ほとんど休めなかった。
(p71~p73)
軍医の検診に立ち会った土屋は『茎管カタル』という病名を述べている。
世界大百科事典によると『茎管カタル』はこういう病気である。
周期性の下腹痛があり,子宮体癌でも同様の症状をみる場合があるので,これとの鑑別を要する。子宮頸管内膜の感染症である子宮頸内膜炎は,症状として帯下の増加がみられ,頸管カタルと呼ばれる場合もあり,慢性頸内膜炎がその代表である。原因は子宮体内膜炎とほぼ同様であるが,そのほかに体質異常,自律神経失調症,子宮腟部糜爛(びらん)などを有する婦人に起こりやすいとされている。

慢性頸内膜炎/つまり炎症を起こしている訳だ。なるほど、毎日のように何人、何十人もの相手をしていれば局部の炎症も起こるだろう。手首を使いすぎると 腱鞘炎(けんしょうえん)になるように、局部も使いすぎれば炎症を起こすのだろうが、炎症を起こしていても休めないのである。
1941年20歳の時ソ満国境付近の「慰安所」に入れられた黄錦周さんはこう語っている。