河野談話を守る会のブログ2

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沖縄でズリの人が見た朝鮮人慰安婦の姿


「ズリ」というのは、沖縄の娼妓のことである。娼妓というより芸者に近く、1日に1人相手にすればよかった。だから皇軍が沖縄に集結し慰安所を造るためにズリに鞍替えを迫った時、彼女たちの多くは断った。1944年、沖縄を決戦の場に想定した皇軍は続々とその沖縄に集まって来た。第32軍、第9、第24、第64師団などである。そして今や皇軍と言えばつき物となっていた慰安所を造りはじめた。
その頃沖縄には辻町という遊郭があった。昭和の辻町の娼婦は3000人程度だったという。
慰安婦になるように話がきた時、彼女たちの多くがそれをできるだけ拒絶したが、それはこんな話を聞いていたからだ。

朝鮮娘(ピー)と呼ばれる慰安婦たちが、どんな状態におかれているか、M子さんの耳にも入っていた。何人来ているのかはわからなかったけれども、朝鮮から連れて来られた娘たちが、20人ずつぐらい一緒に行動して、部隊から部隊をまわっている。ごく簡単な囲いの中で、行列を作ってまつ兵隊をつぎつぎに迎えて、くたくたになって動けないのを、つぎの部隊に向かうためトラックに積み込まれていた・・・・・というような話を聞いた。

『知られざる証言者たち』p40)


「・・・・ウチもなんぼ誘われてもイヤなものはイヤだったから」と答えている。しかし拒否し続けることは難しかった。この著作でインタビューを受けた元ズリの人も慰安婦にされてしまい苦い体験をしたらしい。
インタビューがなされたのは1971年、まだ千田夏光のベストセラー従軍慰安婦さえ世の中に出ていなかった時代のことである。『知られざる証言者たち』という名前で徳間書店の週刊誌『アサヒ芸能』に連載されていた。



佐木隆三著『娼婦たちの天皇陛下潮出版社、1978
沖縄

1年ほど前(1971年)に、かつて日本軍の慰安婦だった女性に会った。いまは、小さな店を経営している。戦前の遊廓である(那覇の)辻町で娼婦をしていて、沖縄守備軍に徴用されたのだった」「本土から来る官僚や商人の現地妻として重宝がられた辻町の女たちは、太平洋戦争の末期にどっと10万もの大軍が沖縄守備にあらわれたことで、こんどは慰安婦として重宝がられたわけだ。娼婦なりにプライドはある。わたしに話してくれた元慰安婦は、『(辻町では)一晩に一人しか客をとらないで奥さんみたいに尽くしていた』ころのことを強調する」「『それがさ、慰安所にやられてからは、1日に何十人も相手にさせられて、それはもう、ズリ(娼婦のこと)なんかじゃないよね、こうなると……』と、それから先は口をつぐむ」「沖縄戦が激化し、日本軍は南端へ敗走を続けるが、このとき慰安婦たちも行動を共にする。朝鮮人が沖縄へ送り込まれていて、不運な娘たちは辻町のズリたちよりもさらに惨めだった。なにしろ腰が立たなくなったのをかついでトラックに乗せ、順番を待つ次の部隊へ運んでまたベッドで身体を開かせるほどだったという。この朝鮮人慰安婦も辻町から来た慰安婦も、激戦のさなか補助看護婦や炊事婦として酷使される。そして慰安婦としての役目も、また……」「日本国内で、軍隊の慰安所があったのは、沖縄だけのはずである。本土にも、慰安所として機能する公娼地帯があったのはもちろんだが、少なくとも行列はなかっただろう。だが、沖縄には行列が作られるほどの慰安所があった。輝ける皇軍の兵士たちが昼間から性の排泄のために行列を作っても、住民の目を気にしなくて済む。なぜなら、実質的には植民地なのだから……」
(p10~13)