こうした回想を述べているのは久保村氏だけではない。
柳沢勝元上等兵はこう述べている。
白粉を真白に塗り化物のような女。プカプカ煙草をふかして足を組んで男を待つ間、ウイスキーをラッパ飲みしている女。みんな自暴自棄、ヤケクソでどうにでもしてくれという顔をしていた。営内勤務時代は古兵になれば、15日に一度は慰安婦と寝られる。だが、ここは戦線だ。軍袴を下ろして順番を待つ。1人の女が30人からさばいてしまう。私など情けなくて耐えられない。しかも女たちのいる場所たるや破壊された民家ならまだしも、前線では簡単な板囲いに中はアンペラ敷き、まるで簡易便所だ。兵隊に“入場券”なるものが渡った。入場券に「○時○分」・「○号室」と明示されている。兵隊たちは大喜びで、たちまちこの入場券にプレミアムが付いてしまった。プレミアムの第一が煙草、つぎに酒、そして慰問袋に入ってくる女の写真である。女に飢えた兵隊たちは、この入場券を宝物のように大切にふところに収めた
長尾和郎元陸軍兵長もこう書いている。
旅順の遊廓は、軍隊のために特別に設けられた施設ではなく、在留邦人の慰安施設も兼ねていたので、家の造りや女性たちの姿体は東寧とは雲泥の違いがあった。単なる兵隊たちの排泄装置ではなく、情緒的なものがただよっていて、『地方色』豊かな花柳街といった感じが強く、それが兵隊たちには余計楽しかった。
という。
秦郁彦によると戦時中の1943年2月、ジャワ新聞では軍医が 「共同便所は誰ひとり汚す心算で使用するものはなくとも汚れがちなものです・・・・慰安所を開くとき、どんなに厳選しても日が経てばほとんど全部が花柳病になってしまいますから、健全な慰安婦を求めるのは無理です。」と書いているという(『慰安婦と戦場の性』p114)。慰安所を共同便所と譬えるのはポピュラーだったようだ。
この手の話は元将兵の話のあちこちに転がっている。
こういうのを「同志的関係」とか「疑似家族」 とか言っちゃう人間がいるのだから信じられないよね。
(3月14日加筆)
長井通泰編『白い星―歩兵第10聯隊第2大隊本部支那事変従軍戦史』私家版、1973
中国。
「一般の慰問団なんて一度もお目にかかれない、兵站かよくて師団司令部の位置位のものだ。慰安婦もそうであるが、時にはもっと前まで出て来る。主に朝鮮の婦人が多いが、戦いのほんの3、4日の休養の時、5、6日前までは敵地だったこの地に、それはいつの戦いだったか忘れたが、慰安所なるものが開かれた。そして外出が許可された。外出といっても、部落高台を下りてほんの50メートルも行かない畠の中の、その慰安所へ行く目的だけだ。いろいろの注意を受けて、薬をもらって、サックを貰って出かける。兵は夜は外出がないのが当然なのだが、大隊本部は、或る中隊との組み合わせで、日が暮れての時間となった。畠の中の急造のアンペラ小屋は、1間ほどの間隔でアンペラ1枚を垂れかけた間仕切りがあって」「そんな部屋がずらりと並んで、どこの入口にも兵士の群がり列をつくる状景は、レマルクの小説『西部戦線異状なし』か、それに続く小説かに描写されている、あの状景と全く同じ光景だ。陸軍はすべてドイツを先師として創設されたと聞いているが、こんなことまでドイツの真似をしたのであろうか……。私達の間ではこの小屋を“共同便所”と呼んで『共同便所へ行ってくる』などといった」「軍がこれだけ気を使っているのに、私達の内にも“姑娘狩”といって出かける者がいた。その一組は特に残酷で、時には老幼婦女子の別なく惨殺して、その話を吹聴していた」(108ページ)