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皇軍兵士と慰安婦の関係  多くの兵士たちは慰安婦を排泄の道具として見ていた



麻生徹男軍医が具申書「花柳病の積極的予防法」の中で、「軍用特殊慰安所は享楽の場所にあらずして、衛生的なる共同便所なる故・・」と書いている事は、それなりによく知られている。『上海から上海へ』



皇軍兵士にとって、大抵の場合慰安所は、排泄場であり、慰安婦は便器のようにみなしていたのであった。

例えば、久保村正治陸軍大尉は、昭和18年6月ごろの中国の沙洋鎮の様子をこう書いている。



作戦間、約50日の間、私は女性をまったく見なかった。その結果が、男性の精神状態をこのようにずらしてしまうことを知り、あらためて特殊慰安所の必要性を痛感した。この欲望は食欲や尿意と同じであって、兵隊さんは慰安所を共同便所ぐらいにしか考えていなかった。
(久保村正治著 『第11軍通信隊』 図書出版社、1987年 p97)

「兵隊さんは慰安所を共同便所ぐらいにしか考えていなかった。」と言うのだ。

こうした回想を述べているのは久保村氏だけではない。

柳沢勝元上等兵はこう述べている。

白粉を真白に塗り化物のような女。プカプカ煙草をふかして足を組んで男を待つ間、ウイスキーをラッパ飲みしている女。みんな自暴自棄、ヤケクソでどうにでもしてくれという顔をしていた。営内勤務時代は古兵になれば、15日に一度は慰安婦と寝られる。だが、ここは戦線だ。軍袴を下ろして順番を待つ。1人の女が30人からさばいてしまう。私など情けなくて耐えられない。しかも女たちのいる場所たるや破壊された民家ならまだしも、前線では簡単な板囲いに中はアンペラ敷き、まるで簡易便所だ。兵隊に“入場券”なるものが渡った。入場券に「○時○分」・「○号室」と明示されている。兵隊たちは大喜びで、たちまちこの入場券にプレミアムが付いてしまった。プレミアムの第一が煙草、つぎに酒、そして慰問袋に入ってくる女の写真である。女に飢えた兵隊たちは、この入場券を宝物のように大切にふところに収めた

柳沢勝 オレはまんねん上等兵1981、 156

従軍慰安婦110番でもこんな話が語られている。

 


彼女たちは、みんなだまされて連れてこられたのだと言っていました。「マサコ」「キョウコ」「ハナコ」などと日本名で呼ばれていました。兵隊たちの間では、慰安婦のことを「共同便所」といっていました

従軍慰安婦110番 電話の向こうから歴史の声が』p.46)



また、千田夏光がインタビューした元軍人はこう答えている。


「まず軍幹部というか作戦面しか知らない中堅幹部は、最初この意見書に大した興味を持たなかったようです。しかし兵站担当のわれわれは一読して、よく書いてくれた、調べてくれたと思ったものです。柳川軍司令官も大変に注目されたと聞いていました。
  正直に言って当時、彼女らに対し公衆便所という考えが強かったのですが、兵站部がなくてはならないように、中国戦線でそれがなくてはならぬものであること、より優れたものでならぬことを考えていた高級幹部は、この意見書に大いに賛意を強くしたようです。」



長尾和郎元陸軍兵長もこう書いている。


これらの朝鮮女性は『従軍看護婦募集』の体裁のいい広告につられてかき集められたため、施設で『営業』するとは思ってもいなかったという。それが満州各地に送りこまれて、いわば兵隊たちの排泄処理の一道具に身を落とす運命になった。
長尾和郎著 『関東軍軍隊日記』 経済往来社、1968年、p71)

早坂の報告だと、彼女らは看護婦募集の広告にだまされ強制的に慰安婦にされたという。おれは東京の吉原、洲崎の悪所は体験済みだが、東寧の慰安婦はご免だ。あれじゃ人体でなく排泄装置の部分品みたいなものだ。
(関東軍軍隊日記』 、p94)


ちなみに慰安所ではなく普通の遊郭

旅順の遊廓は、軍隊のために特別に設けられた施設ではなく、在留邦人の慰安施設も兼ねていたので、家の造りや女性たちの姿体は東寧とは雲泥の違いがあった。単なる兵隊たちの排泄装置ではなく、情緒的なものがただよっていて、『地方色』豊かな花柳街といった感じが強く、それが兵隊たちには余計楽しかった。
関東軍軍隊日記』111)


という。


秦郁彦によると戦時中の1943年2月、ジャワ新聞では軍医が 「共同便所は誰ひとり汚す心算で使用するものはなくとも汚れがちなものです・・・・慰安所を開くとき、どんなに厳選しても日が経てばほとんど全部が花柳病になってしまいますから、健全な慰安婦を求めるのは無理です。」と書いているという(慰安婦と戦場の性』p114)。慰安所共同便所と譬えるのはポピュラーだったようだ。
この手の話は元将兵の話のあちこちに転がっている。


最近でも、報道特集のインタビューで、元兵士が「公衆便所のようなものですよ」と述べたらしい。

 http://matome.naver.jp/odai/2143782040420743701

山下 歩(解釈改憲絶対反対)@neko_yamashita
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報道特集インドネシアにいた元日本兵慰安所にも行ったことがある。「公衆便所のようなものですよ。便所は小便をひっかけるだけだけどね」 慰安所に行くように慰安所切符を渡された時、明日にも命がなくなるかもしれないから、思い切り遊んでこい、という意味だと思ったという。
 2015.07.25 18:31


ついでだから述べておくが、産経新聞にべったりなノンフィクション作家、佐藤早苗もこう書いている。(ちなみに佐藤さんは、不倫から政治資金使いこみで今話題の田母神さんと仲良しです。)



女子挺身隊すなわち慰安婦たちを待ちかまえていた欲求不満の兵隊たちは、どっとテントの前に行列を作ってイライラしながら順番を待つ。そのさまは、公衆便所の前に並んだ男たちであった。

(佐藤早苗 『誰も書かなかった韓国』 産経新聞出版


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こういうのを「同志的関係」とか「疑似家族」 とか言っちゃう人間がいるのだから信じられないよね。




(3月14日加筆)



高橋孟著『海軍めしたき総決算』新潮文庫、1984
昭和16年1月、海軍の主計兵

「女性の方々に対しては誠に申し訳ないが、戦地(昭和18年頃)の慰安所とは“男性”の処理場であった。これも、軍の作戦の一つであったのだから、現地の女性はもったいなくも、我が軍の作戦に協力して下さったのだ」(p97)







長井通泰編『白い星―歩兵第10聯隊第2大隊本部支那事変従軍戦史』私家版、1973
中国。
「一般の慰問団なんて一度もお目にかかれない、兵站かよくて師団司令部の位置位のものだ。慰安婦もそうであるが、時にはもっと前まで出て来る。主に朝鮮の婦人が多いが、戦いのほんの3、4日の休養の時、5、6日前までは敵地だったこの地に、それはいつの戦いだったか忘れたが、慰安所なるものが開かれた。そして外出が許可された。外出といっても、部落高台を下りてほんの50メートルも行かない畠の中の、その慰安所へ行く目的だけだ。いろいろの注意を受けて、薬をもらって、サックを貰って出かける。兵は夜は外出がないのが当然なのだが、大隊本部は、或る中隊との組み合わせで、日が暮れての時間となった。畠の中の急造のアンペラ小屋は、1間ほどの間隔でアンペラ1枚を垂れかけた間仕切りがあって」「そんな部屋がずらりと並んで、どこの入口にも兵士の群がり列をつくる状景は、レマルクの小説『西部戦線異状なし』か、それに続く小説かに描写されている、あの状景と全く同じ光景だ。陸軍はすべてドイツを先師として創設されたと聞いているが、こんなことまでドイツの真似をしたのであろうか……。私達の間ではこの小屋を“共同便所”と呼んで『共同便所へ行ってくる』などといった」「軍がこれだけ気を使っているのに、私達の内にも“姑娘狩”といって出かける者がいた。その一組は特に残酷で、時には老幼婦女子の別なく惨殺して、その話を吹聴していた」(108ページ)