上から目線で論評する朴裕河に苦笑が禁じえない理由
インターネットの中では、慰安婦に関する研究書どころか、そもそも元将兵の著作物さえまったく読んだこともないような、いわいる”バカウヨ”が、ネットで聞きかじったような知識を元に論評するというシーンがしばしば見られる。平気で根拠の無い嘘をさも知ったかぶったような言い回しで言うので、たいていは呆れられてしまい「ネットで真実君」などと揶揄されている。
しかし、本人たちがその滑稽さや邪悪さを自覚することはまず無いだろう。
性質(たち)が悪い事に、彼らはさも”自分が本当の事を知っている”という風に偉そうに上から目線で論評する。
知識がまるで無いような権威主義体質の人がその自信満々の意見を読んだら、”そうかも知れない”と思い込む。こうやってバカウヨは繁殖して来たのである。
いわば、偽装によって増殖してきたのだ。
「慰安婦の本当の声を」というフレーズで、登場した偽権威朴裕河氏も同様である。700点にものぼる今日まで発見されて来た公文の資料や私が知るだけでも500点はある元皇軍将兵による慰安婦が登場する回想などにほとんど目を通さないまま、あるいはこのブログでも紹介してきた研究者による多数の論文をほとんど無視して、韓国で挺対協が公表した『証言集』、千田夏光の『従軍慰安婦』、いくつかの文学作品、森崎和江の『からゆきさん』などをこねくり回して、後は想像で味付けしたのが、『帝国の慰安婦』という著作であろう。
ところが朴裕河氏。何をとち狂ったか、吉見説・秦説の論評なんてしている。相当上から目線だが、特に吉見に関しては、当たっていない部分がおおい。論評する側がそれだけの知識を持っていない。デタラメいっぱいの秦の言い分にたったそれだけしか突っ込むところが無いのも問題だし、吉見に関してはまるでデタラメというしかない。まあ、『帝国の慰安婦』のほとんどが、秦をはじめとする右派の影響の産物だから、秦をそんなに批判できるわけもないが。秦の方は、「朴裕河さんは私と同じ意見だ」というとります。
赤は私による突っ込みである。↓
*秦郁彦教授の意見について1)
売春婦としてのみ見なしているー愛国した存在、特に軍が運営した場合は「準軍人」として支えたことが看過されている。たとえ売春婦としても悲惨さは変わらない。お金を稼ぎ、楽しかったとすれば、「軍のために働く存在だったから」ための強制された誇りゆえ。お金を稼いだ人だけに注目する傾向が強い。慰安婦たちが楽しかったとすれば、それはそれだけつらい生活をしのぐための自己欺瞞的誇りの結果と見るべきだ。2)
業者を朝鮮人だけと考えているが、日本人も多かったと見える。3)
朝鮮人だけの責任にしたがっている—需要を作った日本国家の責任を考えない。4)
業者が軍に働きかけた境遇だけではない。業者は軍属の地位を与えられることもあった。5)
女性たちをチェックしたのはそういう「商品」を利用しないようにしたことと考えられるが、契約書があれば問題がないという主張になる。本人が認知せずに軍を手伝うことと考えた場合もあるのだから、契約書があれば問題がないとはいえない。6)
運動が政治活動になった動きがないわけではないが、それは参加者の一部。ほとんどは単に善意で動いたと考えるべきだ。
*吉見義昭教授の意見について1)
`強制連行`を、構造的な強制性と捉えるのは正しいが、それを官憲がつれていったことと理解する人が多い以上、その違いは正確に語るべき。1995年の著作からすでに吉見は「業者」について書いている。ただし、主体は「業者」ではなく「軍」であることを豊富な資料に元ずき論証している。
2)
性奴隷的側面があるのは確かだが、直接に自由を拘束したのは業者であり国家。売春婦にも奴隷性があることを看過している。麻生徹男は、見張りの兵士が逃亡した慰安婦を捕まえたことを書いている。まるで牢獄のようなものだったと言える。
3)
世界が慰安婦問題で韓国の主張を認めたことは、必ずしも支援団体の主張が正しいことを証明しない。支援団体の主張とは?支援団体もいろいろあるけどまたそれが吉見とどう関係しているのか?4)
慰安婦の生活困難は業者の搾取によるもの。インフレだけではない。吉見が「インフレだけで慰安婦の生活困難に陥った」とどこで述べている?
5)
オランダとの関係における違いを看過。
6)
業者には純粋に民間も存在。軍属のみではない。前線に行くひとのみ。様々な慰安所があるのに軍運営のものに限定して語っている。7)
責任—人身売買の主体は業者なのに業者の責任は語られない。国家が加担したのは事実だが、知っていて指示し、助けた(船を使っただけで人身売買を助けたと言っていいかどうか)のと、知って黙認したのと知らずに利用したのは違う。時期によって場所によって違っていたはず。それを全て軍の責任としている。「船を使っただけで人身売買を助けた」と誰が言ってるんだ?「慰安婦制度を造った主体(首謀者)だ」と言っているはずである。8)
構造的強制性の中にある自発性を看過。人身売買だから性奴隷というが,そうでないケースもあるし、何よりも慰安婦の「主人」は業者だった。朴裕河自身に知見が乏しすぎるだけである。「両方とも問題、私が正しい」と主張している。鼻もちならないゴーマンさがある。*「被害」かそうでないかだけを強調しているが、「植民地」はその両方を持つ存在だった。そんな当たり前のことを*考えるべきは、国家(帝国)欲望に動員された人々の不幸を誰が考え、償うかということ。兵士もその一人。慰安婦も。そこに加担した民間の責任(定住者たち、大人たち)も考える。何を言ってるんだ、この人は?*この問題が難しいのは体験が異なるのに、「補償」は一つの形にするほかないということ。そのことを「矛盾」として引き受ける必要がある。多様な体験だと言いたいのだろうが、被害の多少はあったとしても、全て「慰安婦制度」に入れられたのである。
*慰安婦は「売春婦」も無垢な「少女」の面も併せ持っていて、そのような矛盾こそが「植民地の矛盾」だった。今では変わって来ている側面もあるが、慰安婦の役割は基本的に社会の弱者に担わされるという点で階級問題であり、家父長制、そして性をまで戦争に利用する国家の問題である。その背景には貧困問題がある。そうした社会・時代の中で、彼女たちは自分の身体と命の「主人」ではありえなかった。この問題を否定してきた人も、支援してきた人も「売春」差別意識を持っていたといえる。歴史認識や「少女像」をめぐる闘いは、そうした側面を持つのであって、両極であるほどその意識は強い。それがポスト冷戦時代の、過去をめぐる左右の歴史認識の闘いと結びついたことが今日の混乱を招いた。そうした背景を知り、そのような差別と支配の時代をすこしでも乗り越えることこそが、慰安婦問題を考えることの意味になるべきだろう。「慰安婦は「売春婦」も無垢な「少女」の面も併せ持っていて、そのような矛盾こそが「植民地の矛盾」だった」・・・もはや何を言っているのか?意味不明というしかない