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鈴木卓四郎 『憲兵下士官』

これまで何度も掲載してきた鈴木卓四郎の 『憲兵下士官』である。

簡単な解説を赤で



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鈴木卓四郎 憲兵下士官』 新人物往来社、1974年
昭和15年4月、憲兵上等兵を拝命。南支派遣軍に転属。


「厳重処分」とは「留置場に収容されている現地人を処刑する」こと
憲兵はスパイ容疑者に苛烈な拷問をした後、たとえスパイでなくても処分(殺害)した


昭和十五年

三好少佐以下の主力が、再び南寧に帰って来たのは十月の初句であった。既に次期作戦の準備は始まっていた。 日本軍の海路より進駐した西村支隊と西原監視団の駐留によって、中国側はさらに奥地の昆明ルートを開いたため、広西公路を押える南寧占領の意気は失われた。(P28)

 次期作戦とは南寧から撤退する作戦であった。作戦の名称は、南寧転進作戦というが、明らかに撤退作戦であった。だが軍の撤収は進攻以上の困難がともなうものである。(P28-P29)

 作戦X日(二十二軍司令部が南寧を出発する日)は十月三十日と決定された。我々は軍司令部と共に出発するものと思っていた。

 だが、全く予想もせざる問題が起った。それは五十余名を超える留置人と、在留邦人が使用していた現地人の処置であった。邦人引揚げの際は、防諜上の見地から一応保護の名目で留置場に収容していた。 その数は女子供を含む百名以上にも達していた。

 軍としては、防諜上、処刑すべきであるとの方針だった。だが此の命令を拒否したのは三好隊長であった。 たとえ敵性住民として捕われたものであっても、犯罪事実の明確でないものを処刑することは、国際法に違反することではあるし、ましてや、軍または在留邦人に協力してきた善良なる中国人を処刑することは許されるべきではない。

 それのみか、敵側は我が方に収容されている人員が如何なる処置をうけるのか監視しているものと見なければならない。かりにも処刑の如き強硬手段に訴えた場合は、無益な刺激を与えるのみか、撤退作戦其のものが至難となり、犠牲が多くなると思わねばならない。

 三好少佐の正論に押えられ、二十二軍の参謀部は其の処置を憲兵隊に一任した。但し、X日プラス三日、即ち十一月二日〇時、後衛尖兵大隊が市内を撤収するまで、此の百五十余人を監視し釈放せざることを条件とした。

  此の軍から附された条件の下に、三好少佐は百五十余人の留置人を最後まで監視すべきものの人選をした。川北曹長を長とし、下士官以下五名、補助憲兵五名、計十名の川北隊と名乗る監視隊が出来た。幸か不幸か私も其の一員として加わることになった。(P29)

     
「今日の午後から、厳重処分を実施するから、勤務に支障のないものは、必ず出るように」と、警務主任の土井曹長から指示があった。

 厳重処分とは警察用語の「厳重注意」「厳重説諭」の如きものと考えていた。しかし、どうもそんな生易しいものでないことが判った。それは留置場に収容されている現地人を処刑する、文字通りの厳重処分のことであった。

 正午過ぎ、警務主任以下、新拝命の兵長、補助憲兵を含む二十名ばかり、庁舎の中庭、留置場前に集まっていた。既に処刑を受けるべき留置人五十人ばかり、二台のトラックに乗せられていた。 二十歳から五十歳位まで、青年から初老まで、農民もあれば、商人風もあり、果ては一見して敵側の軍人と判るものもいる、種々…雑多であった。

 しかし、ぼうぼうと伸びた髪やひげ、青白くやせた顔色は、長時間の留置場生活を物語っていた。鉄帽を背負い、銃に着剣した補助憲兵が車上にあって警戒していた。処刑執行者たる我々警務係十余名は、三台自のトラックに乗って市内に出た。(P35)

「只今より、刑を執行する。四名ずつ連れてこい」と、刑の執行を命令する、土井曹長の声は緊張にふるえていた。 最初の四名の処刑者が介添の補憲に連れられて、一歩踏み出した時、突然誰からともなく一斉に『抗日戦線の歌』が合唱された。

 「止めんか、歌を止めろ」

 我々が必至で止めさせようとしたが、死を目前にした彼等は止めようとはしなかった。益々声を高く、狂気のように、隣同志と肩をぶつけ合うもの、縛られた後手を上下に振り動かすもの等、目前に迫る死を恐れているのか、喜んでいるのかわからぬ光景であった。 狂気の合唱はしばらく続いたが、歌いつかれたのか漸く終った。

 四人一組の受刑者は介添に支えられて、穴の側に正座すると、日本刀をかまえて後に立った執行者が、呼吸を合わせて、打ち下せば其の瞬間、頚動脈からほとばしる血液は、二条の噴水のように上った。首の離れた胴体は一瞬立上るが如くして、前の穴はどうと落ちていく。 或いは未熟な腕に、切り
損じて軍刀の下にうめいている声、時折りひびく小銃の音は、未だこと切れぬ者に対する止めの銃声であった。

 合唱につかれたのか、絶望に叫ぶ力がなくなったのか、一時は静まり返っていた受刑者の一人が大きな声で泣き叫んだのが合図のように、処刑を待つ二十人ばかりが一時に声をあげて、わめき、泣きだした。(P36)

 此れが此の世のことか、此の世の白日の下で行なわれることであろうか。己のなすべき術も忘れて呆然と立っているだけであった。戦闘中だったらまだしも、全然無抵抗なものを処刑するには余りにも残酷すぎるような気がした。

此の凄惨な状況にたえかねて私は周囲を警戒する警戒班に廻った。何時間位かかったろうか。漸く処刑が終った。さしも深かった二つの穴も七分通り埋まっていた。 死屍るいるいというべきか折重なり、積重なった死体に掘り上げた土をかぶせるのもそこそこに、三台のトラックに分乗して現場を立ち去った。

 真赤に染めた夕日は、ついさっきまで流されていた血の色にも似ていた。はるか右手の白雲飛行場からは、一機、二機と編隊を組んで北西をさして飛んでいく。黄昏の広州市には灯がともった。にくしみ合う敵と味方が雑居して、今日も又不安定な平和を保っていた。

 聞けばこの厳重処分は、各分隊毎に、二ヶ月に一回、実施しているとのことだ。彼等の身分は一体何であろうか。彼等は俘虜であろうか、いや、俘虜ならば、陸戦法規で俘虜としての特権を受けるべきである。

 私は其の夜は当直であった。退屈さと其の疑問に、永久書類(占領地の法規・軍令・内規を綴った書類)を引き出してみた。

 矢張り、彼等は俘虜でなかった。敵側の諜報員・謀略員・遊撃匪等で、占領地域の治安を撹乱させ、或いは日本軍事施設破壊のため潜入した、いわゆる第五列であって、俘虜としての待遇を受ける資格を保持していなかった。 彼等にしてみれば武運ったなく憲兵に検挙されたものであった。しかし祖国に捧げたと思えば諦めのつくことであろうか。(P37)

 彼等を厳重処分という極刑にする根拠は、軍令によって定められていた。 憲兵分隊長は犯罪事実の明瞭なるものは、南支那派遣憲兵隊長に申請して其の許可を受けて厳重処分を実施することが出来る、但し海南島・汕頭分隊長は現地司令官の許可を受けることになっていた。

 一応形式的には、憲兵部隊長・現地司令官の許可にはなっているが、事実は第一線の分隊長が其の権を握り、其の権を操作、実行するのは憲兵下士官であった。(P37-P38)

 これが敗戦後、中国大陸における憲兵の大量虐殺、或いは合法殺人事件として、官、憲兵部隊長の戦犯の有力原因となった悪名高い軍令であった。(P38)


参謀部の命令を受けた兵站は中国人を集めて慰安所を造ろうとした

昭和16年、福州。
「台湾師団は混成旅団として南寧に駐留当時から相当数の慰安所を抱えており、海南島に撤収後も、師団直属慰安所として援助していた。ところが師団が今次作戦に参加して、相当期間、福州に駐留することになった。師団としては当然彼等も作戦が一段落したら追従して来るものと予想していたが、予想に反して1軒の慰安所も来なかった。『台湾師団は福州作戦が終ったら台湾に復員するであろう』と解釈して、師団に追従して台湾に帰還したら再び戦地には出られない。いっそ此処で師団と別れ此の南支地域に落ち着くことが最良の策と商人らしく判断し、師団の招聘を断ったのが真相であった。慰安設備のない戦陣ほど無味乾燥なものがなかった。参謀部は対住民事故のおこる事を懸念して1日も早く慰安所を作るべく兵站部に命令した。参謀部の命令を受けた兵站部は、憲兵隊に秘して(現地住民を酌婦稼業させる場合は必ず憲兵の許可が必要であった)市井の婦女子を集め慰安所を開こうとした。だが現地人とはいえ、酌婦又は慰安所として婦女子を集めることはなかなか容易なことではなかった」(p50~p51)


慰安所には陸軍部隊に直接追従する部隊専属慰安所と、部隊の駐屯する都市に定着して営業する所謂遊廓的慰安所の2種があった

「一口に慰安所といっているが、其の性格、設置条件によって其の分類はなかなか複雑なものがあった。内地人(純日本人)、半島人(朝鮮人)、本島人(台湾人)、特殊人(現地中国人)等、人種別があり」「陸軍慰安所にしても、陸軍部隊に直接追従する部隊専属慰安所と、部隊の駐屯する都市に定着して営業する所謂遊廓的慰安所の別がある。部隊に追従する専属慰安所は給与・宿舎・営業場所等一切の管理を其の部隊から受け、兵站軍医の衛生指導のもとに営業するもので、兵器・弾薬・食糧の如き軍需品と同等以上に待遇されていた。従って彼等の身分は軍に追従する日本人として、部隊指揮官の監督下にあって特別待遇を受けていた。だが、これは法律的には違法なもので、戦地という特殊事情下、やむを得ぬ方法であった。連隊単位の部隊は必ずという程、1つか2つの慰安所を抱え、師団司令部の後方参謀がこれを統轄していた」「遊廓的軍慰安婦は、軍の追従者として軍の警察権保持者たる憲兵の取締りを受ける反面、在留邦人として領事館警察の取締りも受けていた」「特異な存在は特殊慰安所であった。現地人に対しては、部隊は勿論、領警の警察権も及ばないので、軍の唯一の警察権保持者たる憲兵のみが、晴の任務を受けて、営業・衛生等に至るまで管理していた」「一度此の泥沼に入った女性は、なかなかはい上がることが出来ず、3年から5年と、長いのは40を過ぎても酌婦を勤めているものもいた。また、稼業許可規則も、あいまいなものであった。有夫の婦人と15歳未満以外の女性は例外なく許可された。未成年の場合は、親権者の同意書とか、戸籍抄本が必要となっていたが、戦地外地という特殊事情から殆ど省略されていた。では終戦時に、軍慰安婦はどの位いただろうか。軍の兵站部は勿論、我々憲兵隊にしても領警にしても、己の管理下にあった人員は掌握はしていても、総轄的な数字はつかんでいなかった。終戦により現地軍の接収された内地人は、在留邦人として集中営に、半島人は独立国人として第三国人収容所にそれぞれ収容され、本島人特殊慰安婦は、中国人として吸収されたので総合的な数字を求めるのは至難というより外ない。ただ、私の推定としては、南支軍下では、1000人乃至1500人位でなかろうか。其の根拠とするところは、慰安婦の稼業許可する際の標準として、軍人100名に対して酌婦1~2名位としていた。終戦時における、南支軍は大体10万と見て、1500人前後と見るのが、当らずとも遠からぬ数字でなかろうか。此の1500人前後の7割以上は半島人(朝鮮人)婦女子であったことは驚くより外はない。貧家に生れた彼女らは、生まれ故郷を振出しに、内地~台湾と放浪の果てにたどりついた者、或いは悪徳紹介屋の甘言に乗せられ、直接戦地に来たもの、哀れ聖戦の犠牲者として、或いは陰の軍の戦力として働いた彼女等は、何処の空で如何なる生活を営んでいるだろうか。昭和16年の11月より3年間、海南島・江門・中山等で直接或いは間接に取締官として彼女等に接した私ではあるが、復員後未だ一人として再会したことはない」(p59~p61)

陸軍慰安所「えびす」のおやじ黄は陸軍軍属であった

「・・・『黄』というよりも、陸軍慰安所「えびす」のおやじといったほうが貴方には判るかも知れない」・・・「あの黄の奴、実にひどいことをやったからな、……あれで陸軍軍属であったかと、実に情けないよ」(p89・90)

業者になる男性も騙されていた
「陸軍直轄の喫茶店、食堂、或いは将兵の集会所」と聞いて渡支したが、実際は売春をさせねばならず苦悩

「うちの兄さんは、慰安所のおやじにはもったいないよ。学校の先生の方がよっぽど似合うよ。もっとも朝鮮に居たら校長先生より偉かったからな。」 余り上手でもない日本語で主人を自慢して笑わせる女もいた。
  彼女等(慰安婦)の話によれば黄氏は日本流で言えば地主の二男坊らしく、学歴や地位も土地の校長先生よりも上に見られていたらしい。国の為、民族の為と当時流行の外征の将兵を慰める為にと小作人の娘達を連れて渡支したのであった。 
   だが彼の考えていた慰安所と現実の慰安所とは余りにも差があったことだ。彼の想像していた、いや渡支の際の契約は、陸軍直轄の喫茶店、食堂、或いは将兵の集会所となっていた。それが陸軍慰安所即ち売春業であることを知った。小作人の子、貧農の娘とはいえ、小学校も満足に出ぬ、善悪の識別も出来ぬ子供に売春を強いねばならぬ責任を深く感じ、「兄さん、兄さん」としたう、此の若い酌婦等に心から己の浅はかだった行動を悔いているようだった。(p93)