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米軍の新聞「ラウンドアップ」の慰安婦記事を秦郁彦が処理するとどう歪曲されてしまうか?


戦時中アジアで発刊されていた米軍の新聞「ラウンドアップ」の慰安婦記事


れについて書いたものと言えば、早稲田大学浅野豊美氏が調査し、<アジア女性基金>に書いた論文雲南ビルマ最前線における慰安婦達-死者は語る』 http://www.awf.or.jp/pdf/0062_p061_088.pdf (p63~)  が有名である。


この論文の中には「ラウンドアップ19441130日付「日本の慰安婦」(原文:"JAPCOMFORT GIRLS")という記事が発掘されている。
部分掲載しよう。
 

 全文はリンクPDFからご覧ください


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雲南ビルマ最前線における慰安婦達-死者は語る』(p63~p65)

最初に紹介したいのは、ワシントンのナショナルアーカイブに保存されているラウンドアップというビルマにいた米軍兵士の間で読まれていた新聞である4)。「ラウンドアップ」の同年11月の記事によると、松山で捕虜となった慰安婦は、朝鮮人が4人日本人が一人とされており、写真に出てくる慰安婦4人と同じである。

・・・・(中略)・・・・

 「ラウンドアップ」のタイトルは、「日本の慰安婦」(原文“JAP COMFORT GIRLS”)で、ウォルター・ランドルという記者によって執筆された。ビルマ雲南の国境地帯を北から南に流れている怒江(別名:サルウィン河)前線から寄
せられたものと但し書きがついている。また、ラ
ンドル記者が慰安婦にインタビューをした際に通訳を務めたのは、「満州から脱出してきた日本語を話す中国人学生」で、恐らく写真の左端に笑顔で写っている青年がそれだと考えられる。


・・・・(中略)・・・・


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 インタビューをもとにまとめられたこの記事によると、慰安婦達の年齢は、24歳から27歳で、捕虜となるまでの経緯は以下のようであった。
 1942年の4月初め、日本の官憲が朝鮮の平壌近くの村に来た。彼らは、ポスターを貼ったり大会を開くなどして、シンガポールの後方基地勤務で基地内の世話をしたり病院の手伝いをする挺身隊(原文では、"WAC"organizations )の募集を始めた。4人はどうしてもお金が必要だったのでそれに応じたという。ある女の子は、父親が農民で、ひざを怪我してしまったので、応募の際に貰った1,500円(米ドルで12ドル:原文)で、治療代を工面したという。そのような形で集められた18人の女の子の集団は、同年6月にいよいよ朝鮮から南へと出港することとなった。道すがら彼女たちは、日本の大勝利と南方で新しく生まれようとしている共栄圏についての話をたくさん聞かされた。しかし、船が約束のシンガポールに立ち寄っただけで、そのまま通過してしまってからは心配な気持ちが広がり始めた。ビルマのラングーンから北へと向かう列車に積み込まれたときには、もはや逃れられないと運命を悟ったという。





また西野瑠美子氏はこう書いている。



中国・拉孟

(中国・ビルマ・インド)方面に駐屯していた米軍が出していた週刊新聞『ラウンドアップ』(1944年11月30日付)には、『ジャップ「コンフォート・ガールズ」』と題した、ウォルター・ランドル特派員の次のような記事がある」「『日本軍要塞を掃討した中国軍は、このほど10人の日本人と朝鮮人の女性を捕らえた。彼女たちは松山(拉孟)で山の形を完全に変えてしまうような三か月間にわたる激しい砲爆撃と絶望的な最終戦を敵軍隊とともに生き抜いた』」「『松山の5人の哀れな女性たちの身の上話を聞くことができた。そのうちの4人は朝鮮の農民の娘たちで、年は24歳から27歳だった』」「『1942年の早春、彼女たちの故郷の村、朝鮮の平壌に日本の役人たちがやってきて、宣伝ポスターと演説で“WAC(陸軍婦人部隊)”組織への募集キャンペーンを始めた。WACではシンガポールに行き非戦闘員として後方支援――日本軍の休養キャンプを回ったり、接待や病院の手伝いをすると彼らは説明した。4人全員が、お金がどうしても必要だったと言い、一人は農民の父親が膝を怪我していたのだが、彼女が登録した時に軍票で1500ドル(USドルで約12ドル)が支払われ、治療代を払うことができたと話した。これら18人の女性たちの一団は1942年6月に朝鮮を出港した』」「『シンガポールを経由する船に乗せられた最初のころ、彼女達は少し不安になった。それからラングーンから北に向かう汽車に乗せられた時、自分たちの運命に気がついたのだった』」「『中国軍が松山を攻撃した時、彼女たちは壕で暮していたが、24人のうち14人は爆撃で殺された』

 (西野瑠美子 『戦場の「慰安婦」』 明石書店、2003  p115~p117)





要するに「シンガポールの後方基地勤務で基地内の世話をしたり病院の手伝いをする挺身隊の仕事だ」という欺罔(ぎもう)を信じて、お金が必要だった女性たちは応募したという話である。

明らかに官憲が「挺身隊」の名で女性を集め、詐欺を働いたという資料だが、これを秦郁彦はこう書いている。



両地点の陥落から2ヶ月後の『CBIラウンドアップ』という米軍の陣中新聞には、捕虜となった10人の慰安婦たちに面接したUPのランドル記者による報道記事がある。インタビューに応じた5人のうち一人は35歳ぐらいの監督役らしい日本人だが、4人の朝鮮人女性(24-27歳)は42年6月、朝鮮を船で出てビルマに来た。動機は金である。仲間は24人いたが、14人は砲火で殺された、などと、もらった米国製シガレットをくゆらせつつ身の上話を語った。おそらく騰越からの脱出組かと思われる。

秦郁彦 『慰安婦と戦場の性』p124)




「動機は金である。」だそうだ。

恐ろしい人である。
上記の「1942年の4月初め、日本の官憲が朝鮮の平壌近くの村に来た。彼らは、ポスターを貼ったり大会を開くなどして、シンガポールの後方基地勤務で基地内の世話をしたり病院の手伝いをする挺身隊(原文では、"WAC"organizations )の募集を始めた。4人はどうしてもお金が必要だったのでそれに応じたという。」を秦郁彦が要約すると「動機は金である。」になってしまうらしい。

働く以上は、大抵の場合お金を得ることが目的に決まっている。そういう当たり前の事を書いて、「官憲が」集めたことや「陸軍婦人部隊(挺身隊)」という名前や偽りの説明については、まるで書かない。それはつまり、金目当てである事を強調したかったという事だろう。

こうした説明が歴史学者の名を使って書かれている。

常々嘘・デタラメばかり言ったり書いたりしている人だが、彼は歴史学者という名前を使って自分のやっている事が恥ずかしくないのだろうか?


慰安婦と戦場の性』ではこの「ラウンドアップ」の記述の後で、秦は有名な『ミッチナ資料(捕虜尋問49号)』について4ページを使って書いているが、そこでも 「彼女たちは無教養、幼稚、気まぐれ、そしてわがまま」という部分は強調し、「このような偽りの説明 を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を受け取った。」http://a777.ath.cx/ComfortWomen/proof_jp.htmlという犯罪性を示す部分をまったく書いていない。

こうして、妙にトリミングされた記述を読む人達は、そこに詐欺による徴集があったことを理解しないだろう。まあ、頭の悪い国家主義者には、受けるのだろうが。
秦郁彦 『慰安婦と戦場の性』を読んで慰安婦問題を学ぶのは止めておいた方がいいだろう。本当の事が何も分からない本である。