河野談話を守る会のブログ2

ヤフーブログ閉鎖のため移住しました

業者はたいてい「軍属」または「軍従属者」であった


海軍慰安所の経営者の息子であった華公平は、自分も経営者の家族として「軍属」証明書を持っていた」と述べている。

華公平著『従軍慰安所「海乃家」の伝言』日本機関紙出版センター、1992年。華(日本人)は、元海軍の父親が上海で海軍の慰安所を経営。昭和19年7月から約1年間上海の海軍軍属の慰安所で見聞きしたことを書いている。

「海軍特別陸戦隊から、私たちにも、軍属の証明書をくれたんですよ。私も、楼主の家族ということで、軍属の身分でしたから、証明書を持っていました。慰安婦たちも軍属で、みんな、軍属の身分証明書を持っていました」(p70)




慰安所を経営していた業者が軍属だったという話はこの華公平以外にも多くある。

例えば元軍医の田中保は、将校クラブの主人を「軍属」にした様子を書いている。


田中保著『泣き虫軍医物語』毎日新聞社、1980年発行。著者は、昭和19年7月から軍医として出征。ボルネオ

「(参謀長は)なじみであった大森の川魚料理屋『松浅』の主人松木を、芸妓15、6人と共にクチンに軍属として呼び寄せ、主人を赤帯(佐官)待遇にして、軍司令部近くに将校クラブを開設させていたという豪の者。」



佐官というのは、少佐、中佐、大佐の事でその上は少将である。将校クラブの主人にその高い地位を与えたと言う事だ。地位の高い軍人による軍の私物化だが、皇軍は戦地や占領地でこうした私物化を抑制しなかったので占領地では、まるで戦国大名のような悪逆な行為が蔓延したのである。


憲兵上等兵であった鈴木卓四郎もこう書いている。




「・・・『黄』というよりも、陸軍慰安所「えびす」のおやじといったほうが貴方には判るかも知れない」・・・「あの黄の奴、実にひどいことをやったからな、……あれで陸軍軍属であったかと、実に情けないよ」(p89・90)


黄という慰安所の楼主が「陸軍軍属」であったというのだ


また、有名なスマラン事件などで従犯格の慰安所経営者たちも、みな軍属であったと資料は告げている。

臨時軍法会議付託決定書 バタビヤ臨時軍法会議軍検察官

目下チビナン刑務所に拘禁中の
9.古谷巌
当40歳 東京都浅草出生(明治40.10.9)軍属
10.下田真治
当32歳 和歌山県東牟婁郡出生(大正4.10.29)軍属
11.森本雪雄
当24歳 和歌山県有田郡八幡村出生(大正12.2.14)軍属
12.葛木健次郎 
当38歳( 山梨県北都留郡出生(明治42.1.25)軍属

第9被告 古谷巌
a.昭和19年2月・3月及び4月の間、スマランのヘニーランにある「ホテル・スプレンディッド」、当時「スマラン・倶楽部」と称した慰安所の経営者であったが、・・・

第10被告 下田真治
昭和19年2月・3月及び4月の間、スマランのチアン・バルウにある当時「青雲荘」と称していた慰安所の経営者であったが、・・・

第11被告 森本雪雄
a.昭和19年2月・3月及び4月の間、ベラカン・ケボンにある先の「支那ホテル」後に「ホテル・デュ・ハピロン」、当時は「日の丸」と称した慰安所の経営者であったが、・・・

第12被告 葛木健次郎
昭和19年2月・3月及び4月の間、スマランの当時「スマラン・倶楽部」と称していた慰安所の経営者として、・・・





937年7月日中戦争が始まると1937年9月29日に軍は【野戦酒保規程を改正】した。京都大学の近現代専門の歴史学者永井大教授が発見したこの資料は「慰安施設を造ることを可能にした法的根拠」として有名だがhttps://ianhu.g.hatena.ne.jp/nagaikazu/20070626第六条では野戦酒保の経営は「自営」と「請負」があった事が書かれており、「衛戍地より伴行する酒保請負人は軍属として取扱ひ一定の服装を為さしむるものとす。但し其の人員は歩兵、野砲兵及山砲兵連隊に在りては三名以内、其の他の部隊に在りては二名以内とす」としており、人数制限はあるものの各部隊が業者を軍属にできるようにしている。こうして各部隊長は比較的安易に慰安婦業者に対して「軍属」の資格を与えていたと見られるのが上記の各資料である。

慰安所経営者の全員が「軍属」だとは思えないが、インドネシアの事例で強制売春で逮捕された全員が軍属だった事からも、その数は非常に多かったのではないかと考えられるのである。
では「軍属」になっていない場合は完全に「民間人」なのだろうか?
そうではない。その場合、「軍従属者」という立場になるだろう。


サイゴン鈴木六郎支部長代理『仏印ヨリ内地、満洲国、支那、「タイ」向旅行許可ニ関スル件』(1943年2月8日付)

極秘 

昭和18 二八〇 暗 西貢 二月八日前発 

              本省  八日後着 

  青木大東亜大臣 

第一〇号 


今般南方軍総参謀長ノ名於テ当地軍ニ対シ仏印ヨリ内地、満洲国、支那、「タイ」ヘノ軍人、軍属以外ノ旅行許可ハ爾今大使府ニ於テ与ヘラレルヘキ旨電報アリタル趣ヲ以テ当地軍側ヨリ当方ニ聯絡越セルモ軍従属者(御用商人、飲食業者、慰安所従業員ニ対シ当方ニ於テ其ノ旅行ノ際旅券又ハ国籍証明書等ヲ許与スルコトニ疑義アリタルヲ以テ本省ニ稟請スルコトトシ一応返答ヲ留保シタル処
〔以下略〕

                                                           (吉見義明編『従軍慰安婦資料集』147~148頁)
ハノイ栗山茂事務総長『軍従属者ニ対スル旅行許可ノ件』(1943年3月10日付)

極秘 

昭和18年 三二九七 暗 河内 三月十日後発 

                本省 十日夜着 

       青木大東亜大臣 
                                  栗山事務総長
第二一二号 

   (軍従属者ニ対スル旅行許可ノ件) 

貴大臣発西頁宛電報第四三号及西頁発貴大臣宛電報第一六二号ニ関シ
軍従属者ノ現地解除後ニ於ケル身分ノ変更ニ関シテハ従来確タル原則ナキ処事情ヲ見ルニ便宜上軍従属者ノ資格(例ヘハ御用商人、慰安所、酒保員等)ヲ取得シ軍ト共ニ或ハ現地軍呼寄ニ依リ入領セル者ニシテ其ノ後軍従属者ノ資格ヲ離脱シ軍発給ノ証明書(軍紹介状又ハ呼寄証明書等)ヲ当府ニ提示ノ上一般邦人トシテノ旅券若クハ国籍証明書ノ下付ヲ願出ツル次第ナリ然ルニ
〔以下略〕

                                                                              (吉見義明編『従軍慰安婦資料集』149~150頁)





その他の「軍属、軍属待遇」資料
浪江洋二編『白山三業沿革史』雄山閣出版、1961年発行。東京の花柳界・白山50年の歴史。
昭和17年9月、北ボルネオ・クチン

大東亜戦争に突入した。事態は1億1心挙げて戦う時代となった。すでに小笠原島で海軍関係の仕事をしていた白山三業の芸妓屋『三浦家』主人は、この機会に吾が職域で奉仕することが吾等の勤めだと決心し、南方現地慰問を志していた。陸軍省にその許可を申請したところ、昭和17年5月に話は進み7月には軍属待遇としてボルネオ方面司令官前田利為中将のき下に配属されることになった。『三浦家』は芸妓20名、髪結3名、女中その他で合計30名。目的は現地慰問と芸能文化の紹介宣撫建設の一助であった。で、98梱包の衣装・楽器・料亭用調度品を携行することになり、白山三業から千代竜・小梅・ハム子などの芸妓が参加することになった」


慰安婦ではないが、末期には比較的簡単に軍属にできたというはなし。

大野芳の『8月17日、ソ連軍上陸すー最果ての要衝・占守島攻防記』では昭和19年、幌筵島『柏原のお汁粉屋に爆弾が直撃しまして、数人の女性が犠牲になりました。アルバイトに頼んでおった日魯漁業の女子従業員でしたが、あのときは哀れでしたねぇ。なんでこんなところにまで来て犠牲にならなきゃならんか、と。師団司令部では、すぐさま彼女たちを軍属あつかいにしました』(長島厚談)
と述べている。女性たちを軍属あつかいにしたという話だが、この時期には人数的にもかなり自由に「軍属」にできたようである。





2018-6-21追記)
鴨緑江に題す』 中原 雄一

鴨緑江の朝鮮側に配属された国境警察官・中原 雄一が書いた鴨緑江に題す』のp208~p214には、「慰安婦募集に微力を致す」という小見出しがある。
それには、慰安婦徴集業者と出会った事が書かれている。「軍属 金原始彦」である。


イメージ 2

イメージ 3