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元憲兵・松田才二が語ったラバウルの慰安所 「女たちの3分の1は病気で伏せって、そしてまた多くが死んでいきましたよ。」









「女たちの3分の1は病気で伏せって、そしてまた多くが死んでいきましたよ。」

と松田才二氏

「女たちはひどい生活でしたね、廊下の左右にうなぎの寝床のように布で仕切られただけの2畳ほどの部屋があってね・・・食事は乏しいもので、ごはんと味噌汁におしんこだけ。健康を維持するにも足りません」

まるで昔の吉原だ。

この酷い「タコ部屋」環境で重労働を強いられて、女たちは命を落としたのである。

この時代、「国体」というわけのわからないものの価値が高く、人の命などまるで価値を置かれていなかった。

歪んだ国では歪んだことが起こる。

皇軍のいたところでは、様々な酷い出来事が起こったのである。



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ラバウル慰安所についてはすでに書いており、松田才二氏にも登場していただいている。


ニューギニア慰安所【中間報告その2】-『秘めたる空戦 』が描くウエワクの慰安所



あの戦争を正当化したがる元憲兵は多くいる。
慰安婦」に関する証言も信用できないものが多いのだが、松田氏の証言はかなり信憑性の高いものだ。





松田氏は、昭和18年3月ラバウルに到着
陸軍第六野憲兵隊、警務課長を務めた。



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松田才二 『孤鷹の眼』 創現社出版、1993


昭和18年12月ごろ


予ての計画どおり菊池(憲兵)隊長は加藤参謀長を訪れ、看護婦及び慰安婦ら非戦闘員の早い内地送還を意見具申し了承された。その理由は、この苛烈な決戦場に女性を控置することは人道よろしくないこと、と慰安婦の百害とであった。然し慰安婦が、いつどのようにしてラバウルに来たのか全く判らず、親方らの商魂の逞しさにおどろくばかりであった。

非戦闘員全員を最後の病院船に乗せたのは、昭和18年12月のことであった。その後、慰安婦を還したことで憲兵隊は、アチコチから集中攻撃を受け、白人シスター・女性華僑を代わりに提供させろ等と無法な要求を受けたが、断乎拒否したのは当然であり正解でもあった。

(p44~p45)

「唯一の犯罪の温床は、憲兵隊の目前に陣取っている慰安婦集落であった。その数、約300名で健気に稼ぎまくっており、よくぞここまで遠征したという感じで、その逞しい商魂には驚かされた。何しろ極熱地なので、各部屋は薄い布で仕切られているだけである。内地人、朝鮮人、台湾人の混成で雇い主は不明だったが、気の毒な貧しい出身であることは確かであった。彼女らの1日の平均客数は約30~40人で、中に80人という豪の者がいた。菊池大佐も、どんな顔か見たいということになり、ラバウル分隊の手配で案内されて来たのは、想像もつかぬ美形であったのには、菊池隊長と2人で目を合わせて驚かされた。色白の小柄でポチャポチャしていたので客が集中攻撃するのであろう。1日、稼動時間12時間として80人を捌くとすれば、1人に10分足らずの早業になるのには、またも驚かされた。憲兵隊が取締りの対象にしているのは、治安及び秩序の維持の外、性病に因る戦力の低下を恐れるからである。筆者らが上陸した時には、もう彼女らは先着して営業酣といった所で、どんな手はずかは知らないが、適時軍医が検診を続けており、その結果と営業客数が憲兵隊にも報告されていた。或る日、検診立会いの将校が欠員となり憲兵隊に依頼してきたが、こちらにも将校は筆者1人しかいなかった。ラバウル分隊に頼まれ筆者が立ち会うことになり困惑したことがある。暫く待たされたが検診なるものはなかなか始まらない。軍医と雇い主と女性らが、何やらボソボソ話し合っている。その内容が筆者にも理解できた。それは筆者が若すぎるので、あられもない姿を見られるのが恥ずかしいからいつものように年老いた将校にしてほしいと訴えていたのである。その日は中止となり筆者も難を逃れた。とにかく7万の将兵に僅か300名では百害あるのみである。それだけに、金や物で独占しようとする少数貴族だけの遊び場になり貨物廠や船員らが犯罪に走りやすく、逃亡兵が武器を持って隠れて、憲兵が命がけの捕物帳を演じたり軍事警察も目を離せぬ場所となった。憲兵隊は方面軍に強く献言して昭和18年暮までに全員を内地に送還した。

(p132~p133)







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清水靖子 『森と魚と激戦地』 北斗出版、1997

(ラバウル慰安所街の)この一角について詳しいのが「私は憲兵隊の本部の責任者として、その「慰安所」の総監督もした」と語る松田才二さんである

以下は松田さんの語る『慰安所』である。
「「慰安所」と女たちを引き連れてきたのは陸軍の暁部隊です。暁部隊は正式には第4船舶輸送司令部というので、強力な輸送力を持っていました。坂本中将が司令をしていました。支那事変・満州事変以来の日本軍相手の「慰安所」の親方と暁部隊が話し合ってラバウルに女たちを連れてきたのです。「慰安所」の管理は暁部隊がしていました。警備・取締りは憲兵隊がしていました。女たちはひどい生活でしたね、廊下の左右にうなぎの寝床のように布で仕切られただけの2畳ほどの部屋があってね、小さな包みほどの身の回り品を持っているだけ。食事は乏しいもので、ごはんと味噌汁におしんこだけ。健康を維持するにも足りません。わずかの時間に裏の空き地で行水していました。彼女たちの着物を洗うなどは現地人の少年たちがやっていました。彼女たちの衣服はゆかたがけに帯でした。一番大きい「慰安所」は平屋建ての長い建物で、朝鮮の女たちがすし詰めに200人から300人入れられてました。日本から連れてこられた女たちは、別の8棟ほどの二階建ての「慰安所」にいました。それぞれ20人づつぐらい詰められていたでしょうか。出身地は沖縄県五島列島・天草・宮崎県・滋賀県奈良県和歌山県・東北など、貧しい地方からの女たちが多かったんですよ」

女たちの3分の1は病気で伏せって、そしてまた多くが死んでいきましたよ。女たちの死亡は暁部隊の日報に載りました」

今村均司令長官指揮下の副官部が「日々命令」を師団に伝達するんですが、そのひとつが、この「慰安所」の使用でした。今日はどの部隊が「慰安所」を使うかなど、日を割り当てていたんです。そうでないと混雑してしまうからです」

ちなみにラバウルソロモン諸島方面の軍隊へのコンドームの配付は、1942年だけでも第17軍に334万個、南海支隊に1万個が陸軍省からなされたことが、陸軍省経理局建築課の記録に残っている

(p76ーp78)