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靖国神社「英霊」思想の成立を考察する



ザックリ言うと

復古神道の思想の中で、藤田東湖の言葉が解釈されて生まれたのが、靖国神社護国神社の「英霊」思想である。

「英霊」思想は、日本の伝統でも何でもなく、ここ200年程度の新興宗教の主張の産物である。


          1、「死者を神」とする風習の発生

藤田東湖(後期水戸学の学者)は江戸時代末期に書いた『正気歌(せいきのうた)』で「英霊」という言葉を使った。
天皇や主君に忠義を尽した人々の霊魂の事で、これが靖国護国神社の「英霊」という言葉の起源である。

しかし、これだけでは、靖国護国神社の言う「英霊」にはならない。
靖国神社護国神社は、「天皇のために戦闘して死んだ人を、一律と神として祀る神社」だが、そこには、まず「人を神として祀る」という思想があり、さらに天皇のために戦闘して死んだ人は、死後日本国を見守る神となる」という思想がある。

そこで、太平洋戦争を戦った将兵たちの中には、「靖国で会おう」と述べて、散って行ったのである。また戦時中は、「英霊が日本を守っている」「英霊が皇居を守っている」などの神道信仰観念を産んだ。

しかし、神社(神道)を調べるとこのような思想は古代には存在せず、江戸時代の末期になって初めてその萌芽が生まれている。

古代の神社(神道)には、「死者を神」とする風習さえほとんど無かったからだ。
まず、そこから追及しよう。

以下は神社新報に掲載された岡田荘司氏の書いた論稿(部分)である。



この神道研究者は、古代日本において「死者を神」とする風習がほとんど無かったことを告げている。

         ↓  (部分掲載)

   ↑
神職養成校である国学院大学神社本庁の癒着ぶりが伺える

(掲載されている神社新報は、神社本庁の機関紙)



古代には、「死者を神」とする考え方自体がほとんど無かった。宮地直一氏によれば、<律令制定時には人を神として祀る風習自体が存在しなかった>のである。

ここから、靖国の「天皇のために戦闘して死ぬ人を、一律と神として祀る」「死後日本国を見守る」という考えに至るには、大きな隔たりがある。一体、そういう考えはどうやって生まれたのか?


         2、中世 詐欺から生まれた吉田神道の暗躍

まず、中世には、人を神として祀る神社がいくつか生まれたが、それは上で見たように、極めて大きい制約があり、特別な人物が長い時間をかけて神として祀られたのである。
そして、やがて神社界を支配した詐欺師・吉田神道によって、その人霊祭祀の考え方が定着していくことになる。


  <吉田神道を俯瞰す>

吉田神道創始者 吉田兼倶は詐欺師である。

以下、神道の本』(学研)から抜粋

   明らかに詐欺

①策略をめぐらし、神器が自分の神社に出現したと報告し、裏工作をして認めさせる
②加茂川の上流に塩俵を埋め、神が飛来したという奇跡を演出
③太古神典を作成
家系図を造り変える


中世の神社界を支配し、江戸時代の神道に大きな影響を与えた家元吉田家は詐欺から始まったのだ。

最近、吉田清治という人を「詐欺師だ」と述べていた人がいたが、何百年も神社界を支配した吉田神道の方が、はるかに危険な影響力があったのである。

人騒がせな詐欺師もいたものだ。その吉田家が人霊祭祀を広めて行ったのである。




    
  
 上述 神社新報』昭和61年7月21日 岡田荘司「人霊祭祀と神道」より



しかし、これだけでは、靖国護国神社の「英霊」思想にはならない。
なぜなら、江戸時代末期までは、神道界においても、死んだ人は皆、黄泉の国に行くと考えられていたからだ。

古事記』の中でイザナミが黄泉の国に行ったように・・・・である。



ウンチク
「黄泉の国」はアテ字であり、「夜見の国」と書くこともあり、「下津国」「根の国」と言うこともある。



      3、江戸時代後半、平田篤胤「死んだ人は黄泉の国に行かない」 と述べて、古代の神道神話や師匠である本居宣長さえ、批判した


「人は死んだら、じめじめと暗い<黄泉の国>に行く」というのが、神社(神道)の世界では、長い伝統であった。

だから、「死穢」などという日本独自の観念を産んだのである。(こうした観念は日本仏教にも浸透した)
「死は穢れている」というわけだ。
たとえ、「人霊祭祀」が多少広まったからと言って、それは変わらない。

また、こういうところから、「死」を扱う職業への差別が生まれる。中世には動物を殺す役目の人を穢多と呼んだが、それは神社が持っていた「死」の観念から生まれたのである。 (『日本奴隷史 』阿部 弘臧著

それはともかく、吉田神道によって、人霊祭祀が幾分か浸透した後、靖国思想の産みの親、平田篤胤の登場である。


   平田篤胤 (1776年-1843年)



平田篤胤はまず、黄泉の国に行くという説を退けた。

こういう。
(以下、『日本の名著(24)平田篤胤 (p157~p264)「霊能真柱」より



イメージ 4


『日本の名著』p230




ウンチク
『日本の名著(24)平田篤胤は、霊能真柱」を現代語訳しており、原文が読みたければ、『霊の真柱』 (岩波文庫、平田 篤胤  (著), 子安 宣邦)が適切である。

つまり、「死んだら黄泉の国に行くというのは嘘だ」というのだ。

篤胤にとって師であるはずの本居宣長が「死ねばみな夜見の国に行く」と述べていたことについては、こんな風に述べている。


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つまり、「古伝も誤って伝わったのだし、賀茂真淵本居宣長もみんな間違っていますよ。私の言うことが正しいのです」という意見である。
呆れてものも言えない話だが、当時の人達は古代においては「人霊祭祀」の風習さえ、ほとんど無かった事を知らなかったし、この篤胤の説にたぶらかされる人もたくさんいたのだろう。



         4、人は死んだら、国土に留まるとした平田篤胤

では、平田篤胤は人が死んだらどうなると言うのだろうか?

見てみよう。

イメージ 1

                (p241)

人は死んだ後、「永久にこの国土にいる」のだそうだ。それは「現に聞く事実から明らかだ」という。

そんな事実は知らないが、そういう意見らしい。

篤胤は『新鬼神論』において、「・・・まづ人は、生てありし時の情も、死て神霊となりての情も違うことは有るまじければ、生たる時の情もて、神霊となりての情をはかるべし。」 「日本思想体系50」平田篤胤『新鬼神論』(岩波書店)、昭和48年、p160) という。

つまり「人は死ねば神となるが、情は変わらない」というのだ。こうして死ぬと人は神となり、国土にあって生者を見守る」という世界観が生じるのである。

また、このような世界観から平田派による幕末の「神葬祭運動」が生まれるのだが、神葬祭運動はあまりにマイナーな話題なのでそれはまた別の機会に述べよう。

篤胤のこの思想は、同時代の神道界の2大勢力であった白川家と吉田家に影響を与えた。1808年(文化5)には白川家が、1823(文政6)には吉田家が古学教授委託をする(吉田真樹『平田篤胤ー霊魂のゆくえ』p242)。また明治維新に影響を与えている。

明治維新に影響を与えた ↓


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(三橋 健著 
神道の本』 p51)


            5、結論

●古代においては、人霊祭祀さえほとんど無かった。
●中世になると、選ばれた一部の人だけが、神となって祀られるようになったが、それは詐欺によって家元となった吉田家が進めたことだ。
●やがて、近代になって、平田篤胤が「人は死ねば、神となり、生前の情のままに国土にとどまり、子孫を見守る」という世界観を形成した。
●ここで神葬祭が始まった
●そして幕末、藤田が「天皇や主君に忠義を尽した人々の霊魂」を「英霊」と呼んだ。

こうして、靖国神社護国神社の思想的成立を迎えるのである。

靖国神社を保守政治家は、近隣諸国と軋轢を引き起こしてまで、一生懸命に集団参拝するわけだが、ほんとうに靖国に元将兵神霊が存在し、国土を見守っているのだろうか?

最初から、日本の伝統を無視した平田篤胤が造ったまるでデタラメな理論である。参拝している人々は、この理論が正しいと言えるのだろうか?

私は靖国に神霊など存在しないと思っている。
そもそも、人が死んだからと言って、神になるなどとは考えていないし、「死後国土にいる」などとも考えていない。

ゆえに参拝することは無意味であると思う。

それから、もちろん靖国は、お墓ではない。そこは死んで神となった将兵を顕彰する平田神道系のイデオロギーを有した宗教施設である。


(ウンチク)
平田篤胤は、世界のあらゆる神話・伝承は全て日本古来に生まれたものだという汎神道主義を唱え、将来においては全世界の人々が皇国日本にひれ伏すであろうとしている。( 『の真柱』p110 アマゾンリンク

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こうした考え方が、日本人を「アジアの盟主」と思いあがらせ、侵略戦争へと駆り立てたのである。靖国神社侵略に向かった皇軍の精神的支柱となったのもうなずける。


併せて読もう
戦慄の「侵略思想の淵源】シリーズ http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/folder/1576386.html