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研究集会「『慰安婦問題』にどう向き合うか―朴裕河氏の論著とその評価を素材に」の集会記録集に記録されている浅野氏の回想=秦郁彦の「女性基金」顛末記



2016年3月28日に、東京大学駒場キャンパスで行われた、研究集会「『慰安婦問題』にどう向き合うか―朴裕河氏の論著とその評価を素材に」の集会記録集のPDFデータが公表されている。


これに関して、すでに当会ではいち早く<参加記>を公表している。


撮影、録音が禁止されていた上に、展開が早かったのでメモが追いつかないものもあり、いくらかいい加減な記憶に頼らざるを得なかったのだが、今回記録を読み返してみても、訂正しなければならない部分はほとんどないように思う。

さて<参加記>では、浅野豊美氏の発言の中で印象に残った部分をこう書いている。

ひとつだけ記憶にとどめるべき発言があった。<アジア女性基金>に参加した際、秦郁彦氏を追い出した有名な事件で、その原因を「秦氏がエッセイを論文の中に混入させようとした。」と表現していた事である。浅野氏はそれをつぶさに見ていたそうだ。この日の浅野氏の発言の中で唯一有益な情報だったと思う。
http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/65436844.html

この部分が正確にはどんな発言だったのか。
公表された資料に記録されているので抜きだしてみよう。

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アジア女性基金の話から始めますが〕1997 年当時、私はアジア女性基金の資料委員会に、最年少の委員として入っていました。最初は、秦郁彦先生と和田春樹先生が和気あいあいと議論していました。ともかく真相究明を一緒にやっていきましょうという雰囲気があって、吉見〔義明〕先生にも声かけて、何度も入ってくださいと高崎〔宗司〕先生がいろいろとお願いしたことを思い出します。その資料委員会が最終的に崩壊したのは、秦先生がご自分の思いのままのエッセイを女性基金の出版物の中に入れて発表しようとしたことがきっかけでした。さすがに基金設立の目的に反するような、ご自分の感想めいたことは、資料委員会の目的ではないため、あくまでも実証的な史料を使って言えることだけが資料委員会の目的であるべきということで、高崎先生と和田先生が取り下げてもらうようにお願いしましたが、結局それは言論弾圧だっていう批判が秦先生から出て、目の前での大声での応酬となり、資料委員会は破綻しました。私はその現場に居あわせましたが、8人から9人くらいだけの場でしたが、それ以来、学者間のあいだでお互いに基本的なスタンスとか感情、モチベーション、それが全然違う人間同士が話す場所が全然なくなってしまいました。こうした状況が、〔感情的応酬に利用される研究者の側の〕言論を助長していると思ってきました。
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つまり、秦郁彦が「ご自分の思いのままのエッセイを女性基金の出版物の中に入れて発表しようとした」というわけだ。

思いのままのエッセイ」
ご自分の感想めいたこと」

というのが秦の書いたものへの浅野豊美氏達の評価なのである。

もっと言えば、これまで秦が書いた慰安婦関連の論文で学術的な研究論文は一つも存在していない。
一つも・・・・だ。
すべてが、右派雑誌などに発表した「エッセイ」か感想めいたこと」なのである。

右派論壇やネトウヨがしばしば引用している慰安婦と戦場の性』については、秦自身がこう書いている。

イメージ 1
(『季刊 戦争責任研究』2000年夏号 秦郁彦著「前田朗への反論」より抜粋)
私はこの本は学術書ではなく一般書なので、注の数はあまり増やしたくないと考えていた」
つまり自分で学術書でないことを認めているのである。


そしてこれが何を意味しているかと言えば、要するに右派が喜びそうな歴史学学術論文は、”まったく存在しない”という事なのだ。

査読を受け、学会誌に掲載されたような論文の中に「強制連行は無かった」とか「慰安婦はただの売春婦である」とか、そんなデタラメを書いているものは無いのである。

(にも関わらず、高橋史郎は「学術論文」がどうのこうの言うのだが、これについては、いづれ頁を改めて追及したいと思う。)