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資料精選『思い出の昭南博物館』解説





 『思い出の昭南博物館』について、リクエストがあったので詳しい内容を公開しておきたい。

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著者のE.J.H.コーナーは、ケンブリッジ大学名誉教授もつとめていた人で、熱帯植物の権威である。
日本でも何冊か植物に関する著作が出版されている。



『思い出の昭南博物館』には『占領下のシンガポールと徳川候』というサブタイトルがついているが、徳川候とは、尾張徳川19代目当主徳川義親侯爵(当時)のことである。「虎狩り侯爵」として有名。また1931年の右翼・軍部によるクーデター事件である「3月事件」に出資したことでも有名である。太平洋戦争がはじまると、「虎狩り」で親しくなっていたサルタンの身の上を心配し、マレー方面派遣を願い出て、陸軍省嘱託としてシンガポール入りしている。
日本軍は占領地で敵性語(英語)を廃止、日本語を強要していた。しかし、マレー語が堪能な徳川義親は、むしろ日本人がマレー語を学ぶべきだとして、マレー語辞典の編纂を、著者の職場である「博物館」で試みた(p132)。こうしてこの著作では後半を、その徳川義親との交情を軸に展開している。

日本軍はシンガポールを占領するとさっそく「昭南」と名まえを変え、東京時間を採用した。英国人の非戦闘員は監獄に収容されることになっていたが著者は嘆願し博物館」で文化保護活動をすることを許されたという(p15ーp18)。
いくつか、おなじみの光景が書かれている。
p29には略奪が、p64-65では華僑大虐殺が、
p74-76では「昭南神社の建立の暗い思い出」が描かれている。

また著者は、戦犯裁判の際に山下将軍が東条の命令に従っただけであることを証言したが、p86では同時に「激烈で残忍であった」という印象を語っている。

p177では敗戦直後シンガポールでは、8月20日から、8月末まで商社や軍関係の書類を燃やして証拠隠滅したことを書いている。

  略奪ー虐殺ー神社ー証拠の焼却

これらは、日本軍につきもののように、多くの著作が、元皇軍将兵のものも含めて語っているものだ。

そして強姦である。

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(『思い出の昭南博物館』)

        (略)
昭和十九年四月、昭南島の市民を震え上がらせる事件が起きた。
日本軍はタイービルマ間に鉄道を敷設するため、インドネシアで人夫を集めはじめた。苛酷な人夫狩りが、年齢、男女の別なく無差別にあちこちの村で行なわれた.幸運にも魔の手を逃れたのは、若くてすばしこい者だけであつた。それ以外の者は皆トラックに乗せしれ、運び去られた。
彼らはタイヘ船で輸送されたが、その船は途中シンガポールに立ち寄った。航海は二週間であったが、それに耐えしれないような年寄り、障害者、病気のジャワ人たちは船から吐き出された。
それで、博物館と私たちの住んでいた旧セント・アンドリユー・スクルのあいだの空地に、彼らを収容するためのバラックが建てられた。彼らはよたよたと生気のない足どりで歩きながら、そのバラックにはいっていった。
航海中に死んだ者も少なくなかった。そういうときには、死体を米袋に入れ、生き残った仲間が海に捨てた。米袋は穴だらけであったから、穴から手や足が突き出ていた。バラックのなかでもたくさん死んだが、やはり死体を米袋に入れて海へ投げ捨てていた。米袋を肩にかつぎ、軟体動物のようによろよろ歩いていた老人が、運びきれずに、袋をどぶに置き去りにした。いったん道に放り投げてもまた持ち上げ、足を引きずりながら海に向かう考もいた。悲惨な光景であった。
人夫が女であり、若くてきれいだと、カタンの近くにある兵営に送られ、兵隊たちの慰みものになった。通行人は、彼女らがジャワ語で「助けて」と悲鳴をあげるのを耳にし、胸をしめつけられた。
真昼間に堂々と市民の前で繰り広げられたこの惨事は、占領直後の華僑大量虐殺と並んで、永遠に歴史上に残る日本軍の汚点となった。三年間の日本軍の占領政策は苛酷であった。人々は生きる力も反抗する気力も失っていた。「南アジアの共通の繁栄」のためにという日本軍の掲げた錦の御旗の無意味さを、いやというほど味わわされてきたからだ。
たくさんの死体が博物館の横に放置された。
        (略)

「三年間の日本軍の占領政策は苛酷であった」のだ。


現在、我が国では、「日本軍はアジアで歓迎された」「日本軍は軍紀正しい軍隊であった」「慰安婦はただの娼婦」などという妄想を唱える人々がいる。しかし、その支配の過酷さは広く知られ、カタンの近くの兵営では、兵隊たちの慰みものとなった女性たちの悲鳴が上がっていたのである。




マレー半島各地の慰安所については、林博史教授
を参照