河野談話を守る会のブログ2

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慰安所についての【軍の検閲・言論統制】



あの戦争を挟んで戦前、戦後の小説家であった火野 葦平(ひの あしへい)は、軍の報道員として従軍したが、検閲によって書けない内容をこう述べている。

当時、ペンに加えられていた制限は大きなものであった。
第一、日本軍が負けているところを書いてはならない。
次に、戦争の暗黒面を書いてはならない。
第三に、戦っている敵は憎々しくいやらしく書かねばならなかった。味方はすべて立派で、敵はすべて鬼畜でなければならない。
第四に、作戦の全貌を書くことを許さない。
第五に、部隊の編成と部隊名を書かせない。
第六に、軍人の人間としての表現を許さない。分隊長以下の兵隊はいくらか性格描写ができるが、小隊長以上は、全部人格高潔、沈着勇敢に書かねばならない。
第七に、女のことを書かせない。戦争と性欲との問題は文学作品としての大きなテーマであるのに、皇軍は戦地では女を見ても胸をドキドキさせてはいかないのである。まして、現地の女との交渉などは以ての外だ。
にもかかわらず、私は『麦と兵隊』を書いた。(まず原稿を現地軍が検閲したが)いたるところに朱が入れられ、方々が削除されていた。5月11日の最後、中国兵捕虜雷国東が麦畑につれ去られて銃殺されるところ、5月22日の終り、3人の捕虜を麦畑で斬首するところは削除になっていた。

(火野葦平 『火野葦平選集第二巻』 東京創元社、1958年 p406~412)


「女のこと」とか「中国兵捕の惨殺」については書いても軍によって削除されたのであるという。

この火野についてNHKは番組紹介でこう書いている。

日中戦争の時代、『麦と兵隊』で国民的作家になった火野葦平が克明に記した20冊もの従軍手帳が北九州・若松に遺されている。この程、全貌が明らかにされ、陸軍報道部を中心としたメディア戦略が浮かび上がってきた。当時、中国の蒋介石政権は日本軍の残虐行為を国際社会に訴えていた。のちに陸軍報道部長となる馬淵逸雄は、これに対抗するため、火野を報道班に抜擢。徐州作戦に従軍させ、「兵隊3部作」はベストセラーとなり、映画化もされ、戦意高揚に貢献する。さらにペン部隊が組織され、菊池寛林芙美子ら流行作家が参加していく。
太平洋戦争が始まると、火野はフィリピンで宣撫工作に従事し、大東亜文学者会議をリードしていく。しかし、実際に火野が目にしたのは過酷な戦場の現実だった。戦後、戦争協力で批判された火野は、自ら命を断った。作家を戦争に動員した軍のメディア戦略と火野葦平の軌跡を初公開の従軍手帳や関係者の証言から描く。

http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20130814




小林秀雄を研究し小林秀雄とその戦争の時』を著した山城むつみは、軍関係の淫売所を露骨に紹介すると削除された事を書いている。


内務省警保局図書課が発行していた出版警察報という記録があった。その第112号に1938年の4月、5月、6月の三か月間の出版物取締の状況が報告されている。
5月分の処分要項に次のように記されている。『文芸春秋 第16巻第9号』『6月1日発行 5月18日削除』『「蘇州」と題する記事は蘇州に設けられたる慰安所と称する軍関係の淫売所を露骨に紹介されたるものなるが右は皇軍の威信を毀損し併せて風俗壊乱の虞あるに因り312頁313頁安寧並風俗削除』。

(p56-57)



小林秀雄をめぐる検閲は対談集 『文壇よもやま話・上』 で池島信平小林秀雄の対話でも言及している。


池島 いや、大変な騒ぎは、その時は日本にもあったんですよ。小林さんその時杭州ッて題で原稿を書かれた。その中に慰安婦のことを書いてあるんですよ。ほんの3行位でしたがね。
小林 ええ、え、慰安所……うん。
池島 慰安所があって慰安婦が居るッてことを……。と、まあ当時ね、神聖なる日本軍隊は慰安婦など相手にすべからざることだし、特に銃後を護っている妻子に怪しからん影響を及ぼすッてんで、あれは発売禁止になったんですよ、文芸春秋は。
小林 あ、そうだったかねえ。
池島 そうですよ。
小林 あッそうだ。それ、聞いたことがある。
池島 そうでしょう。僕たちはしょうがない、発売禁止になったけど、その個所だけ破けば売ってもいいッてんで、一度、警察に押収されたのを、みんな物差持ってッて破るんですよ、2頁か、4頁を……。
小林 あ、そうかねえ。


     (p294)

文芸春秋は「神聖なる日本軍隊は慰安婦など相手にすべからざることだし、特に銃後を護っている妻子に怪しからん影響を及ぼすッてんで発売禁止になった」という。
戦中のリアルな話だ。


この手の話は山のようにあり、石川達三『生きている兵隊』には伏字が多くあった。

(南京の慰安所について)
百人ばかりの兵が二列に道に並んでわいわいと笑いあっている。露地の入口に鉄格子をして三人の支那人が立っている。そこの小窓が開いていて、切符売場である。1、発売時間 日本時間正午より6時 2、価額 桜花部1円50銭 但し軍票を用う 3、心得 各自望みの家屋に至り切符を交付し案内を待つ。彼等は窓口で切符を買い長い列の間に入って待った。1人が鉄格子の間から出て来ると次の1人を入れる。出て来た男はバンドを締め直しながら行列に向ってにやりと笑い、肩を振りふり帰って行く。それが慰安された表情であった。露地を入ると両側に五六軒の小さな家が並んでいて、そこに1人ずつ女がいる。女は支那姑娘であった。彼女等の身の安全を守るために、鉄格子の入口には憲兵が銃剣をつけて立っていた。
  (p156~157)

(上海から南京に向う車中)鉄道警備兵が三四人しきりに話しあっていた。相手は軍人でない便乗者であった。この相手は50近い年齢の男で、その話によると最近日本人の女たちを連れて渡って来たのであった。突然の命令で僅に3日の間に阪神戸附近から86人の商売女を駆り集め、前借を肩替りして長崎から上海へわたった。それを3つに分けて1班は蘇州、1班は鎮江、他の1班は南京まで連れて行った。契約は3年間であるけれども事情によっては1年で帰国するか2年になるかも分らない。厳重な健康診断をして好い条件で連れて来たので、女たちも喜んでいる、という話であった。いずれはそうした夜の商売をしていたであろう狡猾そうな男で、うすい外套を着て慄えながら話していた。『南京には三四日前から芸者が商売をはじめております。4人、5人居ますかなあ。漢口に居た芸者です。一旦長崎まで逃げて戻って、また南京へ行ったのです。わりに若い良い妓です』。そういう裏の事ならば何でも知っているという様子で彼は饒舌りつづけ、兵隊はほうほうと感心して聞いていた。
   (p173~174)

(下線部分が伏字)

こんなに伏字が多ければ何を書いているか分からないだろうが、戦地に女性が連れていかれたことは、分からないようにしていたのである。


半藤一利の説明によると

底本は中央公論昭和13年3月号に掲載されたが、内務省の通達で、書店の店頭に並ぶ暇もなく発売禁止となる。この処分に加え、陸軍の怒りにふれ、「虚構の事実をあたかも事実の如くに空想して執筆した」として新聞紙法違反で、石川らが起訴される。石川は禁固4か月・執行猶予3年の有罪判決を受ける。石川は中央公論特派員として、昭和13年1月5日、南京に到着し、南京で8日、上海で4日、精力的に取材。帰国して2月11日には330枚を書き上げる。「あるがままの戦争の姿を知らせることによって、勝利に傲った銃後の人々に大きな反省を求めようとするつもりであった」という。中央公論掲載文は伏字が多く含まれていたが、戦後の昭和20年12月、著者の手で復元などされ、河出書房から出版された。

石川達三『生きている兵隊(伏字復元版)』中公文庫、1999年

という。
事実を書いたら、「虚構の事実をあたかも事実の如くに空想して執筆した」として有罪になってしまったのである。恐ろしい話だ。

近現代専門の歴史学者である小林英夫と張志強が編した『検閲された手紙が語る満州国の実態』小学館、2006年)によると「関東憲兵隊通信検閲月報」という資料に所収されている手紙にはこう書かれていたという。

日本人・武田某(黒河)→村上某(秋田)41・10・16(押収)」「北満黒河市街を去る北方4里にある山神府兵舎(中略)果てもなき広野に村もなく只一面に国威を示す各兵科の兵舎のみ。唯僅かに見えるのは陸軍官舎の一隅を利用して開設せられたる東西に慰安所あるのみ。慰安所と申せば一寸劇場か、見せ物小屋の様にも想像せられますが、さにあらず。此の兵舎に起居する兵どもの貴重なる精力の排出ヶ所なのです。慰安所の兵力は僅かに20名そこそこの鮮人にして、然も国家総動員法に縛られ、芳子や花子など桃色配給券が分けられ、軍隊でなければ見られぬ光景です。おまけに公定価格という解にて安サラリーには向きません。配給券も職権乱用にて専ら将校連中専用の状態です。
 (昭和16年、満州
   (p155~156)


「20名そこそこの鮮人にして、然も国家総動員法に縛られ」「芳子や花子など桃色配給券が配られ」「将校連中が職権乱用している」と書かれた手紙は、検閲で没収されたということである。

臭いものにはフタをする。都合の悪いものは隠蔽する。
資料に書いてあっても、書いてないという。
資料があっても無いという。

時代遅れの精神的閉塞感をもたらそうと、最近になってそういう事をしている総理大臣がいるが、皇軍と似たようなメンタリティだと言えるであろう。長く総理にしていてはいけない人物である。




慰安所以外】

山本武 『一兵士の従軍記録』

 さて、私が戦斗中に記した日記帳が、あまりに生々しく戦いの惨状、中国兵の刺殺、戦場の恐怖の心情をかき、そして戦斗詳報、記録もあるので、持ち帰りは許可できない、即ち没収すると言われたのである。(P207-P208)

 私は非常に困惑し、

 「なんとかお許し願えぬか。」

 と頼んだところ、その上等兵は、

 「これだけ刻明に書いたものを没収するのは、自分としてはしのびがたい。いちおう上官の指示を受けてみよう。」

 と言って、手帳を持ち去り、少したって、

 「いちおうお返しする。ただし、今後絶対、出版、講演、その他一切公表をしないことを誓約してもらいたい。」

 「承知しました。約束します。」

 ということで、その憲兵上等兵宛の誓約書に官姓名、本籍地、住所氏名を記し、捺印して、返してもらうことができた。

 その上等兵の名前を忘れてしまったが、理解あるその措置にいまなお感謝しており、とくに今度、この日記をもとにして私のたどった軍歴を記録するにあたっていっそうその感を深くしている。(P208)