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「第一次史料に基づいて事実の客観的検証」した学問的慰安婦論文を右派が書いた事があるのだろうか?まったくそんなものは存在しないという単純な事実




「第一次史料に基づいて事実の客観的検証」とかいうのだが、
     そんな論文を出したことも無いくせに、何を言ってるんだろう?

産経新聞社のironnaが、『歴史通』 2015年7月号ご意見無用! 学問的事実で応えてくれ 』を転載している。
作者は、日本会議」の高橋史郎である。

(「日本会議」は憲法を改悪して、「国体」を復活したい急先鋒である。)

こんな事を書いている。http://ironna.jp/article/1633?p=2

「自由な環境で学問的な探求を」と主張するのであれば、事実についての客観的な再検証を行い、事実をめぐる学問的議論を尽くすべきであって、「教科書の内容自体を議論するものではなく」などと歴史の真実の解明から逃げるのは矛盾している。「米国歴史学会」なのだから、日本の大学教授19人が「訂正勧告」を行った事実の間違いに対して、論点をすり替えないで正々堂々と学問的に応えるべきである。私たちが問題にしているのは慰安婦に関する評価や論評、解釈ではなく、事実の間違いに限定しているからである。歴史の解釈を政治問題化せずに、第一次史料に基づいて事実の客観的検証を積み重ねることこそが大切であり、それを踏まえた議論を深めることが求められているのではないか。

〇「事実についての客観的な再検証を行い、事実をめぐる学問的議論を尽くすべき」
とか
〇「私たちが問題にしているのは慰安婦に関する評価や論評、解釈ではなく、事実の間違いに限定しているからである。歴史の解釈を政治問題化せずに、第一次史料に基づいて事実の客観的検証を積み重ねることこそが大切であり、それを踏まえた議論を深めることが求められているのではないか。」

とか言うのだが、一体何をもって「事実」と言っているのだろうか?

慰安婦を題材とした「第一次史料に基づいて事実の客観的検証を積み重ねる」研究論文など彼等の側は、出したことが一度も無いのに?

高橋史郎だけではない。
これまで、「慰安婦の強制連行は無かった」とか「慰安婦は性奴隷ではなく、ただの売春婦である」事を考証をした学術論文は1個だに存在しないのである。もちろん、ダディン教授に反論する「20万人説はまやかしである」とか「天皇の贈り物は嘘である」とか書いた学術論文も存在しない。

ネトウヨ『正論』『WILL』のような雑誌やあるいは右派政治家がそんな発言をしたりしているというだけなのだ。
「第一次史料に基づいた」論文が無い以上、歴史学的な「事実探求」論争になるわけがない。

歴史学者の見解に異論があるなら、自分たちが学術論文を書けばよいだけの話である。

本当の歴史学者の見解はこっちである。




     秦郁彦には、慰安婦問題で学会に提出した学術論文など存在しない

まず、右派は勘違いしているようだが、右派の慰安婦論の中核である秦郁彦には、慰安婦の強制連行は無かった」とか「慰安婦は性奴隷ではない。ただの売春婦である」という考証をした学術論文など一切ない。

秦は 軍事史学会史学会など、いくつかの学術的研究学会に参加し、論文を発表して来たのだから、論文を発表する方法を知らないわけではないし、手段がないわけでもない。

しかし、これまで歴史学専門誌に慰安婦はただの売春婦論や強制連行否定の研究論文をまったく提出したこともなく、その代わりに、産経新聞や月刊誌『正論』『WILL』で、エッセイのような文章を書いて、否定ともとれる意見を公表したりしているだけなのである。

つまり、慰安婦研究での学問的な業績が皆無に等しいのである。

イメージ 1

 秦郁彦
慰安婦と戦場の性』
慰安婦問題での代表的著作)





慰安婦と戦場の性』という著作について、右派やネトウヨはしばしばこれを「学術研究」のように捉えている。
しかし、それは誤解であり、慰安婦と戦場の性』は、学術的文献とは言えない。細かいミスが多い、一般向けの書物であり、自分の個人的体験と意見が多いので、分類としてはエッセイの類ではないかと思われる。

学術的文献ではないことを秦自身も認めている

『季刊戦争責任研究』第28号(2000年夏季号)のp79~85、『前田朗氏への反論』で秦は、注の数を増やさない理由として「私はこの本は学術書ではなく一般書なので・・・」と述べている。

掲載しておこう。


イメージ 2

(秦郁彦著 『季刊戦争責任研究』第28号(2000年夏季号)のp79~85、前田朗氏への反論』

(この文章は実は、学術雑誌に秦の慰安婦関連の文章が掲載された数少ないものである。しかし、内容は「慰安婦」の事実関係を考察した研究論文ではない前田朗氏の国連組織図に関して、秦の盗用問題を指摘され、秦がそれを釈明しているのがこの文章である。ここではまったく別のページの別の文章の説明に前田朗氏の著作を出典としているから、良いだろ・・・というのが秦の主張だ。良いわけないのだが。)

つまり秦郁彦は自分では、「慰安婦」学術論文が無いことを知っているのである。



             学術論文とは?


学術論文は学術雑誌(英: academic journal)に掲載されるものであり、学術雑誌を発刊しているのは学術団体、専門家集団の集まりである。
歴史学では日本歴史学協会、大阪歴史科学協議会 大阪歴史学  東京歴史科学研究会 日本史研究会 日本思想史研究会(京都) 歴史科学協議会 歴史学研究会 等々多数の歴史学会が存在し、それぞれ学会誌を出していて、それなりに信頼度が高い。

これがなぜ信頼性が高いかというと、書くのも専門の研究者であること、それから掲載前に別の専門家によって査読されるからだ。吉田裕氏のようにすでに近現代史の権威として確立している人物は、自分が属していない学会からも、査読を頼まれるそうだ。査読内容は、まず①先行研究が考慮されていること、②十分な資料が使われていること ③無理のない合理的考証がなされているか、だろう。

さらに掲載後、間違いがあったり論理矛盾があったりすれば、その学会に属する他の専門家、他の学会に属する専門家によっても批判されることになる。そして論争がおこることもある。こうして歴史学会では、専門家としての知的水準を保つわけだ。


学会誌のつぎに信頼度が高いのは大学(短期大学を含む)などの教育機関や各種の研究所・博物館の紀要論文だが、信頼度は場合によりけりだ。
これも、他の専門家によって、批判をうけてしまうことがある。私の行く大学図書館には他の大学の紀要集も置いてある。
ここまでが、学術論文と言えるだろう。


備考) 谷岡一郎大阪商業大学学長の 『「社会調査」のウソ』(p100)
「ただし同じ一本の論文でも、大学内の論文集(「紀要」)に載るよりも、その分野をリードする学会の論文集(「学会誌」)に載る方が、一般的には評価が高い。もっとも筆者のように、その年の、一番自信のある論文は学内の紀要に投稿する学者もいるので、必ずしも学会誌の論文の方が質が高いとは言いきれないが,少なくとも学会誌の場合は「査読」と呼ばれる会員相互のチェック機能が働くケースが多く...ある。ちなみに現在では、学内の紀要にも査読システムを採用している大学が多くなってきている。」


市販されている雑誌『正論』、『WILL』や『諸君』、『文芸春秋、などいわいる大衆誌に掲載されているの「慰安婦」論や新聞紙に公表される論文も、論文だが、それは学術論文とは言えない。専門家集団による学術雑誌でないからだ。彼らが書く慰安婦問題は先行研究をまるで考慮しておらず、専門家でもない者たちが各自で、根拠不十分なまま思い思いに書いており、時には妄想のようなものさえある。信頼度が低いことはいうまでもない。

秦郁彦の場合、そもそも学会誌に掲載した「慰安婦の強制連行は無かった」とか「慰安婦は性奴隷ではない。ただの売春婦である」という学術論文がないばかりではなく、彼の書いた「慰安婦」ものは他の専門家たちに「エッセイである」と酷評されている事を知っておくべきである。

他は割とまともなので、能力が無いわけではない。いつも国側の参考人として裁判に出てくる性向が、「慰安婦」問題を歪ませているのだろう。