河野談話を守る会のブログ2

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たくさんの女たちが泣いたーこれが「自発的」などとどこのバカが言ったんだ?


たくさんの女たちが泣く泣く慰安婦にさせられた。

これが「自発的だ」とか「強制はなかった」とか、どこのバカがほざいとるのか?


創価学会青年部反戦出版委員会編
『戦争を知らない世代へ9・宮城編 生死の炎をこえてー出征兵士の手記』
第三文明社、1975年
同書中、「トンネル暮らしのラバウルで」と題する53歳男性の手記。筆者は、昭和16年、海軍の久里浜・通信学校に入学した。
昭和17年、ラバウル

「通信学校にいた時、日米開戦となった」「通信学校を卒業した私はラバウルへ向かった。航海中は敵襲を避けるために蛇行の連続である。そして私の乗った船の中には朝鮮人女性が慰安婦として乗せられていた。皆が船の中で泣いていた。途中寄港したトラック島では日本人囚人が飛行場造りということで降ろされた。いよいよラバウルへ入港したが、その翌朝、早々とニューギニアポートモレスビー米軍飛行基地から発進した敵機の空襲に見舞われた」 (p153~155)



平塚柾緒『知られざる証言者たちー兵士の告白』 p339ーp349

2007年発行。(『週刊アサヒ芸能』1971年連載)



菊丸さんは、親友の五十鈴ちゃんとともに約100人近い女性たちとともに日本を離れたのだった。『横浜を出て神戸に寄って、それから韓国の釜山で韓国人の女性もかなり乗船しました。彼女たちは私たちと違って志願ではなかったようで、チョゴリを着て乗り込んできたのですが、「アイゴ、アイゴ」と泣くのがなんとも悲しくて……私たちもつられて泣き出しましたよ。ほんとうにあの日本を出発して、トラック島に着くまでのなんともわびしい気持ちは忘れられません』




小俣行男著『戦場と記者 - 日華事変、太平洋戦争従軍記』冬樹社 1967


私の相手になったのは23、4歳の女だった。日本語は上手かった。公学校で先生をしていたと言った。「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」と聞くと、彼女は本当に口惜しそうにこういった。「私たちはだまされたのです。東京の軍需工場へ行くという話しで募集がありました。私は東京に行ってみたかったので、応募しました。仁川沖に泊まっていた船に乗り込んだところ、東京に行かず南へ南へとやってきて、着いたところはシンガポールでした。そこで半分くらいがおろされて、私たちはビルマに連れて来られたのです。歩いて帰るわけに行かず逃げることもできません。私たちはあきらめています。ただ、可哀そうなのは何も知らない娘達です。16、7の娘が8人にいます。この商売は嫌だと泣いています。助ける方法はありませんか」



品野実著『異域の鬼』谷沢書房、1981年。

昭和19年、応召し、ビルマ方面で戦う。著者の体験、戦友の証言などで同地区の戦況などををまとめている


(慰安婦の)第一陣が到着したのは昭和17年の暮れも押し詰まっていた。初めは朝鮮娘10名だった。みんな将校クラブ勤務とか挺身奉仕隊など『お国のため』という、かっこよい触れ込みにだまされて集められた。逃げ場のない輸送船内で、抱え主に事実を告げられいい含められて、泣く泣く『実習』で仕込まれてきた娘たちだ。





林博史マレー半島における日本軍慰安所について』http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper09.htm ;陸軍通訳の永瀬隆の証言


シンガポール市街の対岸のブラカンマティ島(現在セントーサ島)の駐留していた陸軍航空の燃料補給廠で通訳として勤務していた永瀬隆氏の証言によると、1942年11月になってから朝鮮人慰安婦12~13人が送られてきて慰安所が開設された。現在の戦争博物館の所に補給廠の本部が置かれ、その南に隣接した建物が慰安所として使われた。氏は朝鮮人慰安婦たちに日本語を教えるように部隊長から命じられたので、その教育にあたった。彼女らと話をしていた時に「通訳さん、聞いてください。私たちはシンガポールのレストラン・ガールということで100 円の支度金をもらってきたが、来てみたら慰安婦にされてしまった」と泣きながら訴えたという。





『海を越える一〇〇年の記憶』図書新聞,2011年

松原勝「軍による『慰安所』管理は紛れもない事実」pp.109-127


1942年、第4海軍施設部軍属としてトラック諸島の夏島へ派遣された


― その夏島に「慰安所」があったのですね。

松原 南國寮と南星寮の二か所、同じような規模でね。(夏島の地図を指し示しながら)このチョンチョン橋を渡って海岸の方へ 出て左折すると四経、四施とあるでしょ、その先に三棟ほどの南國寮がありました。

 源氏名でみどりさんという人がいてね、当時22歳っていってました。だまされてこんな所に連れてこられたってね。私がそこへ行き泊ると、泊まりを受けなかった女の子たちが3、4人集まってきて、いろいろ話をしてくれました。私はどこどこの出身だけど、親やきょうだいと引き離され、だまされてきたんだというわけですよ。人によってはね、子どもや夫にも引き離されてきたんだと泣いて訴えるわけです。高級将校のメイドにならないかとか、海軍病院の雑役の仕事だとか、30円くらいの月給で食事も泊まる所もただだから1年くらいこないかとね。でも、ここへ連れてこられて初めて仕事を知って心が裂けるように思ったと。ひどい話で、日に10人もの相手をさせられるとも言ってました。僕が第四海軍施設部の職員だと知っていたし、若かったからね、気を許していろいろなことを話してくれました。

 トラック島の「慰安婦」は、朝鮮の女性がほとんどでしてね、私の叔母が朝鮮の方と結婚しているということや学生のころ朝鮮人の知り合いもいて、朝鮮人には特別な気持ちを持っていたことも関係していると思いますね。





『こんな日々があった 戦争の記録』出版:上越よい映画を観る会,1995年
須藤友三郎「インドネシアで見た侵略戦争の実態」
1943年以降、北スマトラにいた兵士の記録、コタラジャの慰安所

 スマトラ島の最北端にコタラジャという町があります。私たちは最初ここに上陸し駐屯しました。この町には当時日本軍の「慰安所」があり、朝鮮人の女性が二十名程、接客を強制させられていました。みんな二十才前後と思われる農村出身の人たちでした。「慰安所」の建物は、ベニヤ板で囲った急ごしらえのもので、周囲は有刺鉄線が張りめぐらされ、女性たちが逃亡できないよう看守づきのものでした。……
 「慰安婦」の話によると、当時の朝鮮の農村は貧乏でした。その弱みにつけ込んで、一人当たり二十円程度の前渡金をもってきて、「日本本土の工場労働者になってもらいたい」と親をダマし、徴用されたというのです。ところが船に乗ると日本本土どころか南方に連れてこられ、しかも突然日本軍の将校にムリヤリ売春を強制させられたと、涙を流して「悔しい」と泣いていました。
 しばらくして今度は農村の椰子林の中にまた「慰安所」ができました。ここには、インドネシア若い女性が十名程収容されていました。この人たちの話によると、ジャワ島の農村から、朝鮮人の女性と同じようなやり方で連れてこられたと憤慨していました。




『ある軍属の物語 - 草津の墓碑銘』河東三郎(初出:新読書社,1967年)日本図書センター,1992年海軍軍属設営隊員の河東三郎の記録、場所:インド領ニコバル諸島
 一九四三年秋、(ニコバル島に)内地から慰安婦が四人来たというニュースが入り、ある日、班長から慰安券と鉄カブト(サック)と消毒薬が渡され、集団で老夫婦の経営する慰安所へ行った。順番を待ち入った四号室の女は美人で、二十二、三歳に見えた。あとで聞いたが、戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされ、わかって彼女らは泣きわめいたという。
秦郁彦慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,p.386より重引用)




『新編大河流れゆく』 林郁、筑摩書房、1993年発行。
中国・同江。

同江には3つの慰安所があり、日本の女性だけの店と、朝鮮女性の店、それに『満ピー』または『支那ピー』とよばれた女性たちの『ピー屋』があった。前の2つは日本人専用、『満ピー』の店は日本人、中国人、朝鮮人、だれでも入れた。朝鮮人は日本名の源氏名、和服姿で7、8人いた。気の毒なのは松花江を船で運ばれてきた朝鮮の少女たちだった。彼女たちは泣いて抵抗したため、女郎屋の男に手足を縛られ、蹴られていた。




『アジアの声・第11集・私は「慰安婦」ではない-日本の侵略と性奴隷』東方出版、1997年発行。1996年8月に開催された「心に刻む集会」の報告集。
ボルネオ・バリクパパン

「証言-台湾」「勇気をもって忍耐してきた(と題された)黄秋月(仮名・発言)」「日本人に連れて行かれた時、私は19歳でした。女性と男性の2人が私を連れて行ったのです」「2人に呼び出された私たち台湾の少女は全部で16人でした。学校に行けたので文字が読める少女たちもいましたけれども、そうでない少女は読めなかったのです。『あなたたちは看護婦の仕事をするのです』と(その日本人の)おばさんに説明されました。『私たちは文字が読めないのに、どのようにして看護婦になることができるでしょうか』。おばさんは私たちにこう答えました。『文字が分からなくても構いません。炊事はできるでしょう』。それを聞いて、私たちは『それでは、いっしょに行きます』と答えました。私たち16人は台湾の高雄から出発したのです。1943年のその月日は忘れましたが、船の名前は覚えています。『浅間丸』といいました。浅間丸に半月ほど乗っていました。そして南洋のマカッサルという所に上陸しました。連れて行かれたところは軍人招待所でした。招待所に1週間いる間に空襲に遭ったのです。その空襲で私たちのうち3人が殺されて、13人が生き残りました。そして、また別の船に2、3日間乗せられました」「今度は、バリクパパンという所に着きました」「連れて行かれた家は椰子の葉で囲ってあり、部屋はどれも1畳ぐらいの広さしかありません。そして、みんな一緒の部屋に住むと思っていた私たちに、おばさんと(日本人男性の)タキさんは『一人ずつ別の部屋に入りなさい』と命令しました。タキさんは看板を掲げました。看板には何と書いてあったでしょうか?『マツノヤ』という名前でした。『兵隊慰安所』とも書いてあったのです。文字を知っている少女たちは、その看板を見て泣き出しました」「私たち台湾の少女たちは皆処女で、とても若かったのです。19歳の私が一番年長でした」(82~83)