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『慰安婦問題の決算』=秦郁彦は歴史学者の肩書を返上せよ!

 
 
 
 
     エロ・グロ・ナンセンス
第10巻でもっとも迫力があるのは、日本軍の残虐行為を描いた①斬首②銃剣術の刺突③妊婦の腹裂き④女性器に一升瓶を押し込む4コマ続きだろう。しかし①~③は洋の東西を問わず流通してきた残虐物語の定番と言える。②の代わりに赤ん坊を空中になげ、銃剣で刺すシーンが入ることもある。われわれの世代だと、どこかで見聞きしたはずだ。
マニアの間では起源をめぐるろんそうも起き、赤ん坊を放り上げるのはトルコ軍かロシア軍の得意技らしいと書いた論文を読んだことがある。
そこで元兵士に聞いてみると、彼は銃剣を構える動作を試みた後、「技術的に無理だと思うよ」と答えた。マスコミで流通している斬首写真の多くは、日中戦争期の中国の特務工作部が、アマ俳優を使って撮影した「やらせ写真」であることが立証されているが、さりとてこの種の行為がなかったとは言えまい。
しかし④は見聞きした記憶がなく、ゲンの作者が思いついた空想シーンと断じてよいと思う。念のため友人の医師に聞いてみたが、「物理的に不可能」という返事だった。
  (慰安婦問題の決算』(p116)


これは秦郁彦の「慰安婦」問題がらみの最新作慰安婦問題の決算』のp116である。最初に書かれている「第10巻」というのは、はだしのゲン第10巻の事だ。要するにはだしのゲンに書かれている内容を秦郁彦が否定的に扱っているのである。

             


問題視しているのはこのシーンである  ↓
 
 
皇軍が戦争中にやったことをゲンが話しているシーンである。嫌なシーンだが、皇軍がしばしばこの手のことをやっていたのは、多くの記録が物語っている。


              ① 「銃剣術の的にした話」
                

 
例えば、「銃剣術の的にした話」は、皇族である三笠宮崇仁も戦地で陸軍参謀時代に同僚から聞いたという。

  
                            ( 『This is 読売』1994-8 )

<殿下にインタビュー>

「最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から『新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる』という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体なんだったのかという疑義に駆られました」(p56)
 
 

        ②捕虜を試し切りしたり銃剣で刺すのは
        よくあることだった

十二月十三日 天気晴朗
一、本日正午高山剣士来着す
  捕虜七名あり 直に試斬を為さしむ
  時恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頚二つを見込(事)斬りたり
                                    (第十六師団長、『中島今朝吾日記』より)

陸軍の兵士が、その五人を鉄の垣根のところへ連れ出し、江へ面して手すりに向こうむきに並ばせては、後ろから銃剣で突き刺すのである。その様子は、とてもまともに見ていられない。海軍中尉も、この様子を見て「とても後ろから斬りとばすことはできない」とやめてしまった。
               (『偕行』1985年1月号 P32「住谷盤根氏の回想」)
 
一将校が軍刀で日本刀の切味を試さんとしたら少しのすきをみて逃げ出したのを自分と××君と二人で追い・・・(略)・・・
             (南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 P36「斉藤次郎陣中日記」
 
十一月二日、夜半、中国軍正規兵一名を捕えた。
朝、小隊長伊藤少尉が、軍刀の試し切りをすると斬首する。
               (山本武『一兵士の従軍記録』
 
陸軍第五十九師団師団長陸軍中将藤田茂筆供述書「俘虜殺害の教育指示」
「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」 「此には銃殺より刺殺が効果的である」
   (『侵略の証言-中国における日本人戦犯自筆供述書』新井利男・藤原彰編)
鬼になる洗礼
 昭和7年(1932年)1月のある日だった。入営して二ヶ月にもならない。兵舎から200メートルほど離れた射撃場からさらに100メートルの所に、ロシア人墓地があった。その墓地に三中隊の60人の初年兵が集められた。大隊長や中隊長ら幹部がずらりと来ていた。「何があるのか」と、初年兵がざわついているところに、6人の中国の農民姿の男たちが連れてこられた。全員後ろ手に縛られていた。上官は「度胸をつける教育をする。じっくり見学するように」と指示した。男たちは、匪賊で、警察に捕まったのを三中隊に引き渡されたという。はじめに、着任したばかりの大隊長(中佐)が、細身の刀を下げて6人のうちの一人の前に立った。だれかが「まず大隊長から」と、すすめたらしい。内地からきたばかりの大隊長は、人を斬ったことなどなかった様子だった。部下が「自分を試そうとしている」ことは承知していたろう。どんな表情だったか、土屋は覚えていない。彼は、刀を抜いたものの、立ちつくしたままだった。「度胸がねえ大隊長だナ」と、土屋ら初年兵たちは見た。すぐに中尉二人が代行した。 ヒゲをピアーッとたてた、いかにも千軍万馬の古つわもの、という風情だった。こういう人ならいくら弾が飛んできても立ったままでいられるだろうな、と思った。その中尉の一人が、後ろ手に縛られ、ひざを折った姿勢の中国人に近づくと、刀
を抜き、一瞬のうちに首をはねた。土屋には「スパーッ」と聞こえた。もう一人の中尉も、別の一人を斬った。その場に来ていた二中隊の将校も、刀を振るった。後で知ったが、首というのは、案外簡単に斬れる。斬れ過ぎて自分の足まで傷つけることがあるから、左足を引いて刀を振りおろすのだという。三人のつわものたちは、このコツを心得ていた。もう何人もこうして中国人を斬ってきたのだろう。
首を斬られた農民姿の中国人の首からは、血が、3,4メートルも噴き上げた。「軍隊とはこんなことをするのか」と、土屋は思った。顔から血の気が引き、小刻みに震えているのがわかった。そこへ、「土屋!」と、上官の大声が浴びせられた。 上官は「今度は、お前が突き殺せ!」と命じた。

・・・「ワアーッ」。頭の中が空っぽになるほどの大声を上げて、その中国人に突き進んだ。両わきをしっかりしめて、といった刺突の基本など忘れていた。多分へっぴり腰だったろう。農民服姿、汚れた帽子をかぶったその中国人は、目隠しもしていなかった。三十五、六歳。殺される恐怖心どころか、怒りに燃えた目だった。それが土屋をにらんでいた。
目前で仲間であろう三人の首が斬られるのを見ていたその中国人は、生への執着はなかった、と土屋は思う。ただ、後で憲兵となり、拷問を繰り返した時、必ず中国人は「日本鬼子」と叫んだ。「日本人の鬼め」という侵略者への憎悪の言葉だった。そう叫びながら、憎しみと怒りで燃え上がりそうな目でにらんだ。今、まさに土屋が突き殺そうという相手の目もそうだった。
恐怖心は、むしろ、土屋の側にあった。それを大声で消し、土屋は力まかせに胸のあたりを突いた。
         (聞き書き ある憲兵の記録』朝日新聞山形支局「元憲兵 土屋芳雄の話」)

秦は「①~③は洋の東西を問わず流通してきた残虐物語の定番」と述べ、得意の「どこにでもあった論」で誤魔化そうとしているが、到底誤魔化せるようなものではないだろう。


               ③赤子を銃剣で刺し殺す話
赤子を銃剣で刺し殺す話も、創価学会青年部が熊本第6師団の元兵士の回想を集めた揚子江は哭いている』はこう書いている。 

 

      
 日本軍の急進撃のため、路傍に取り残されて泣いている赤ん坊がいた。母親が殺されたのか置いて逃げたのかわからないが、一人ぽつんと残されていた。その子を歩兵の一人が、いきなり銃剣でブスリと、串刺しにしたのである。
 赤子は、声を出す間もなく、即死した。
 突き刺した兵は、さらに、刺したまま頭上に掲げた。それも誇らしげに・・・。「やめろ」という間もない、アッという間の出来事であった。
                    (揚子江は哭いている』P93~P94)



           ④「一升瓶を女性の性器に叩き込む残虐行為」


「④は見聞きした記憶がなく、ゲンの作者が思いついた空想シーンと断じてよい」と秦は書いているが、”バカを言うな”と言うしかない。

秦は色川大吉が戦時中の出来事を半自伝的に書いた『ある昭和史 自分史の試み』を読んだこともないのだろうか?
秦にとっては、歴史学者として先輩になるわけだが。




                  
               (『ある昭和史 自分史の試み』p68)


まさにはだしのゲンが描いた通りのシーンであり、はだしのゲンの作者である中沢啓治はこうした話を読んだり、出征兵士から聞いていたのかも知れない。近現代専門の歴史学者秦郁彦よりも漫画家中沢啓治の方が歴史に詳しいという事実に我々は失笑せずにはおれない。
 
この色川大吉話は吉田裕教授(近現代専門の著名な歴史学者天皇の軍隊と南京事件に引用している。秦の「見聞きした記憶がなく」や「ゲンの作者が思いついた空想シーンと断じてよい」は、秦の不勉強から生じた見解であると断じてよいだろう。
 
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                                             (吉田裕天皇の軍隊と南京事件
 
 
はだしのゲンへの攻撃は在特会とその周辺がはじめたことである。まるで歴史資料を知らないレイシストたちが、日中戦争時に皇軍兵士が犯した罪悪について無知なのはまだしも教育の弊害として情状酌量の余地がないでもないが、専門研究者であり近現代史について数多くの著作をし、南京事件に関しても本を書いている秦がそれに同調し、「見聞きした記憶がなく、ゲンの作者が思いついた空想シーンと断じて」しまうのは甚だしい不見識である。

また、たとえ色川の『ある昭和史 自分史の試み』を読んだこともなく、あるいは読んだが失念している場合でも、日中戦争史の強姦で、異物を女性器に入れて殺害する行為は、様々な著作物に書かれていることなので、「性器に一升瓶を入れて殺す」もあったかも知れないと考えるのが正しい考察の仕方であろう。
 
例えば、秦が『現代史の争点』P10で、「シンドラーとは比較にならぬほどの義人」「インパクトと説得力を持っている」と高い評価を与え、*関西の新聞に「資料的な価値は高い」とコメントしたという「ラーベの日記」には、
1938年2月3日
局部に竹をつっこまれた女の人の死体をそこらじゅうで見かける。吐き気がして息苦しくなる。七十を超えた人さえなんども暴行されているのだ。
                             (ジョン・ラーベ南京の真実P222)

と書かれている。

                *http://www.history.gr.jp/nanking/rabe.html 南京大虐殺に関する資料は全て
                イチャモンをつけるという東中野センセイの姿勢をよく表している文章だが、秦
                 のコメント自体には違和感はない。
 
 
 
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                                                                                       (『現代史の争点』)


自分がこれほど高い評価を与えた「ラーベの日記」を、まさか読んでないなんてことは無いだろう。

さらに秦は南京事件(p121)に「小原立一日記」を掲載しており、「殺して陰部に木片を突っこむ」と書いている。

十二月十四日

最前線の兵七名で凡そ三一〇名の正規軍を捕虜にしてきたので見に行った。色々な奴がいる。武器を取りあげ服装検査、その間に逃亡を計った奴三名は直ちに銃殺、間もなく一人ずつ一丁ばかり離れた所へ引き出し兵隊二百人ばかりで全部突き殺す・・・・中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っこむ
自分でも皇軍が女性の陰部にいたずらをする例を書いているのである。

南京事件では強姦が嵐のようになされており、家族を殺された夏さんの母親も性器にビンを押し込んで殺害されたという。https://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64396076.html
 
しかし、秦郁彦は「見聞きした記憶がない」ようである。歴史学者という肩書に恥ずかしくないのだろうか?
 
 
 
【備考】その他「強姦殺人+性器へのいたずら」

川沿いに、女たちが首だけ出して隠れているのを引き揚げてはぶっ殺し、陰部に竹を突きさしたりした。杭州湾から昆山まで道端に延々とそういう死体がころがっていた。昆山では中国の敗残兵の大部隊がやられていて、機関砲でやったらしいが屍の山で、体は引き裂かれて、チンポコ丸出しで死んでいた。そのチンポコがみな立ってるんだ、ローソクみたいに。「チンポコ3万本」と俺たちはいっていたが、3000人以上はいたろうな」(p46)
『証言記録三光作戦南京虐殺から満州国崩壊まで』 森山康平 1975「第10軍に従軍したカメラマン河野公輝の話」
 

もっと残虐な行為をする者もあった。妊娠している婦人を連行して全裸にし、大きく膨らんだ腹に刀で突き立てる者、木の間に女の両手両足をゆわえ、子宮に手榴弾を指し込み爆発させる者等・・・・・とにかく手当たり次第に、女という女には、ありとあらゆるいたずらをしたのである。女たちにどれほど酷い事をしたかという話しが、兵隊仲間で興味本位に、しかも得意げに語られていたものである。(元軍曹T氏)

(月刊誌『潮』1971年7月号、特集「大陸中国での日本人の犯罪=100人の証言と告白」より)
 
支那の時より軍紀は概して良好で、それにそんな悪いことをする間もないほどの急進撃だったからな。女の死体の陰部などに竹の棒をさし込むような凌辱を加えられてあったのを一度だけ見たけれど、あんなことはさすがに嫌な気がして面をそむけちまった。
                                        昭和17年、シンガポール
鮎川信夫鮎川信夫著作集第七巻』思潮社、1974)
 
変態性欲的行為トシテハ勿論其例ハ多クハナイ。其ノ例トシテハ死人ノ陰部ニ悪戯セルモノ(男女)捕虜ノ陰部ニ特ニ悪戯スル者(即チ陰茎ニ油ヲ注ギ是ニ点火セルコト)或ハ他兵若クハ支那人(殊ニ夫ノ前)ニ見ラレツヽ性交セル者、或ハ性交ニテ足ラズ虐待シ或ハ是ヲ銃殺セル者等ヲ挙ゲル事ガ出来ル。亦支那婦人中ニハ金ヲ貰ヒテ陰部ヲ見セル悪風ガアル。兵モ是ニ興味ヲ感ジ脅迫ノ上見ルコトニ止マラズ遂ニ強姦ニ及ンダ例モアツタ。上海事変ノ時ニハ女ノ乳首ヲ切リ取リ紙ニ包ミテ持チ歩キタル兵ガアツタト聞イタ。今度ノ事変ニハ女ガ逃ゲテ居ラナカツタカラコンナ例ハナカツタト思フ。
  (『戦場心理ノ研究 』 p78 https://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64338135.html)

銃剣で突きさしたり、妊娠している女の腹に刺して子供を引きづり出しました。私も4,5人やりました。相当残酷な事をしたもんです
               連続強姦殺人で死刑になった小平義雄談
『新評』1971年8月)
 
 
それにしても、敵側の惨虐は報道し得ても、「皇軍」の残虐は報道できない―。

 町はずれの路傍で姑娘が、地べたに腰をおろしていた。近づいてみると、上衣はつけていたが、下着も下穿きも脱がされていた。二十歳前後だろうか。その頃流行の断髪姿、顔立ちも整った美人だったが、兵隊に犯されて立つ気力を失ってしまったのだろう、手だけはわずかに動いて、眼は大きく開いていたが、どこをみているのか、うつろな瞳だった。通りがかって兵隊がやったものだろう。裸の股の間に棒キレがさしこまれていた。 女はそれを抜いて捨てる気力もないようにみえた。兵隊たちが立ちどまって覗きこんでいた。そのとき、小隊長らしい将校がやってきて、兵隊に向って「かたづけろ!」とどなった。

 いったいどこへ片付けろというのだろう。病院もなければ、住民もいない。手当するようなところもない。数人の兵が姑娘をかついで行った。

 夕暮どき、私は兵隊たちにきいた。
 「あの女、どこへかたづけた!」
 「焼いちゃいました。あんな恰好でころがっていたのでは、死んでも浮かばれないでしょうから、マキを積んで、その上にのせて、焼いちゃいました」。

 彼女は虫の息だったが、たしかに生きていた。すると、彼女は生きたまま焼かれたのである。

『侵掠』小俣行男P53~P54)
(追記2018-3-9)