女衒の家に生まれた作家・宮尾登美子
宮尾登美子は『岩伍覚書』で、女衒のセリフを
・・・・一時は根絶やしかと思わましたもぐりの業者が近頃ではまたおおっぴろげに横行しはじめ、あこぎな方法で軍隊の慰安婦を狩りだしているやに聞き及びます。と書いている。
(『宮尾登美子全集』「岩伍覚書」p90~p91)
これは文学作品だが宮尾の父親は、高知県の芸妓娼妓紹介業者であり、エッセイではその父親への反発と共に稼業の内幕も書き残している。
『生きてゆく力』によると
「父が亡くなったのは昭和26年・・・(父の書いていた)日記は昭和11年から14年間、1日もかかさず天候気温、来信発信まで克明につけてあり、驚いたことにはその14冊の余白という余白に、赤インクでびっしりと感想を書きなぐってある。この赤字はすべて戦後書いたもの」「(それは)悉く戦争を推進した日本の首脳部に対する恐ろしいまでの憤激と、自分自身への深い悔恨の思いからだった。このひと、女の身売りは親兄弟への最高の献身愛、と信じ、大正の中ごろ、その善行を助けるため、として芸妓娼妓紹介業の看板を掲げ、以来、家業を嫌う娘の反抗もものかは、ひたすら家業に励んできたのだった。とくに戦争酣のころは、大陸の戦士を慰労するため多くの女性を送り出し、また自らもたびた び出向いては意気軒昂たる姿だったのを娘は目にやきつけている。そして思いもかけぬ敗戦。日本のあらゆる価値基準は逆転したり消去したりのなかで、親孝行の介助行為が実は残忍な人身売買という行為であったと知ったときのこのひとの衝撃は、いかばかりであったろう。赤字の文章は至るところに『己の愚かさよ。東条英機に騙されて』或いは『軍部に踊らされて』などの文字が行間から怒りが噴出するほどの激しさで記されてある。明治生まれの無学な男だっただけに、己れの過ちはいかにしても許せなかったにちがいない」(p192~193)
「戦争のころは、大陸の戦士を慰労するため多くの女性を送り出し、また自らもたびた び出向いては意気軒昂たる姿だったのを娘は目にやきつけている。」
『めぐる季節を生きて』(講談社)によると
「戦前、芸妓の紹介人が人助けであると胸を張り、大いばりで仕事に精出ししていたものが、終戦を境に人身売買の残酷な職業に下落してしまったその憤ろしさを、父は(遺品の)ノートにめんめんと書き綴ってあった。無学な人間だったから、国家体制にひたすら協力し、戦争中は外地へ女たちを送ってお国のためと自己満足していたのに、戦後すべてが暴かれてみると、いかに自分が軍部にだまされ踊らされていたか、口惜しさ限りない思いであったに違いない」(p239)
「私の家で、満州と取引がはじまったのは昭和11、2年ごろからで、父はしょっちゅう、たくさんの女たちを送り出し、また向うからも、保養を兼ねて女たちの雇入れに来ていたものだった。大連、奉天、新京、吉林、ハルビンが主な取引先で、その妓楼の楼主たちは、札束をふところにしてやって来、いく月も滞在しては命の洗濯をしてまた向うへ帰ってゆく」(p268)
「私の家で、満州と取引がはじまったのは昭和11、2年ごろからで、父はしょっちゅう、たくさんの女たちを送り出し・・・」
宮尾の著作には、国粋主義的な父親への反発とか、いろんな要素が書かれている。戦争中は、羽振りもよく「胸を張り、大いばりで仕事に精出ししていた」女衒の父親が、敗戦後は「(東条たちへの)憤激と、自分自身への深い悔恨」に変化し、それまで毛嫌いしていた”西欧的なるもの”を受け入れるようになった。世の中の価値観が大きく変化し、頑固な国粋主義者も変化したのである。
そう言えば、戦前の遊郭業者は、売春を「我が国体」と呼んでいたり、廃娼運動家を右翼を雇って潰そうとしたようだがhttps://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64489695.html、遊郭に関わる多くの人達の価値観は「国粋主義、日本主義」だったのだろうと思う。