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韓国併合史の中の征韓論者たち1




併合に向かう流れ 明治初期から中期にかけてのまとめ
《征韓思想とは、「朝鮮が天皇に服属すべきものであり、その天皇を中心とした体制が日本の本来の姿、国体であるとする理念であって、王政復古して国体を顕現するからには、朝鮮は服属の礼を示さねばならなず、朝鮮側が拒否する場合には武力をもってそれを実現すべし」という思想 (〇吉野誠明治維新征韓論』p227)》
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佐田 白茅(さだ はくぼう)は1868年(明治初年)には「朝鮮は応神天皇以来、(朝貢の)義務の存する国柄であるから、維新の勢力に乗じ、速やかに手を入れるがよろしい」という建白書を政府に提出。
1870年(明治3年)3月、その佐田 と森山茂は釜山に派遣され、書契問題で紛糾していた朝鮮との予備交渉。この過程で朝鮮側の態度に憤激した佐田は、同年4月に帰国したのち政府に征韓を主張する報告書を提出した。

琴秉洞によれば、明治維新後政権の中枢に入り込んだ吉田松陰の弟子で征韓論を唱えた中心人物は木戸孝允だったが、それを草の根に広げ日本中を熱狂させたのが佐田白茅であり、初年以後3度にわたって建白書を提出している。佐藤信淵にならって朝鮮征服は「30大隊あればことが足りる」と述べており、琴秉洞は「朝鮮従属を早くから提唱した佐田白茅の朝鮮蔑視の根は深い」と評している。(琴秉洞『日本人の朝鮮観』p52-p55、明石書店 2006)
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これが日本側の外交官だったわけだ。侵略主義者が外交官なんだから、まともな外交になるわけがない。
こうして佐田 や森山の征韓論を受け、1870年 外務省が太政官あてに『対朝鮮政策3か条』を提出
第ニ策「天皇の使いとして木戸孝允を派遣し、王政復古政策の国書受理拒否を責め、通商条約締結をもちかけ、これを朝鮮側が拒否するなら武力発動に及ぶ」
第三策「朝鮮懐撫のため、宗主国である清国と「比肩同等」の条約終結を先行させ、ついに朝鮮を「一等を下し候礼典」で扱い、「遠く和して近く攻る」の方策」
おいおい。

1873年 閔妃と高宗が大院君を追い落とし高宗の親政を始めると日本に対する姿勢を軟化した。日本政府は、天皇が外交を司る以上朝鮮は日本に服従しなければならないという「朝廷直交」論に替えて、妥協案としてあった「対等」論によって条約を締結しようとした。この時点で日本側は本音を隠して、近づいていく。やがて1900年代に「朝鮮征伐」の夢想をかなえるのだが、それはともかく1873年の話だ。
「対等」論によって条約を締結しようとした日本だが、しかし書契には、「皇上」の文言が使われ、森山茂は儀礼の場で洋服の着用を主張し軋轢を招き不調。いつもそうだが「対等」とか「平等」とかいう言葉は、日本では言葉の中にだけ存在している。
1875年4月、森山理事官は「軍艦を発遣し、対州対馬)近海を測量せしめ、以て朝鮮国の内訌に乗じ、以て我応接の声援を為さんことを請うの議」という強硬な征韓意見を寺島外務卿に提出した (『韓国併合』海野福寿p15)。
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大日本帝国政府は軍艦を送り、1876年 江華島で条約交渉 <日朝修好条規>による不平等条約締結した。
中塚明の『現代日本歴史認識』p146~によると、長く定説とされていた「飲料水を求めている時に銃撃された」も歴史の偽造だという。井上海軍少佐の報告書には「水」の文字がならんでいるが、この報告書は10日も経て書かれており、事件翌日の報告書<9・29報告書>には、「飲料水を求めて」などとは書いておらず、「分捕り品一覧」まで添えてあるという。また戦闘は3日に渡ったのである(p168~)。これについて後に元帥にまで登りつめた井上は、要約すると「3日もいたとなれば国際法上の問題になるから、国際法上許されている「飲料水をもとめて」と主張したのだ」という意味のことを述べている(p173、大正13年5月22日の海軍大学校の講話)。
つまり「3日間戦闘した」となると国際法上問題なので、「飲料水を求めたら砲撃された」という被害者なりすまし話に差し替えたのである。
ネトウヨはしばしば、<ホントは加害者なのに被害者に成りすます論理>を振り回すが、国家ぐるみの「被害者偽装」に、日本の歴史は彩られている。

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ここ数年、安倍政権下による自衛隊日報や森友問題での公文書の隠蔽、偽装が取沙汰されているが、その安倍たちが理想とする神権天皇制国家は歴史偽造大国であった。歴史修正主義という言葉があるが、わが国における歴史修正主義の歴史(都合の悪い歴史の削除改竄)は長きにわたる伝統なのである。