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■[資料][慰安婦]日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態(1)

[ []日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態
 
Transnational History  さんからの転載です
 
(転載許可あり)
 
歴史の第一次史料を丹念に調査した傑作のひとつです。
 
 


慰安所の前で脚絆(ゲートル)を外し順番を待つ兵士たち 場所:中国、時期:1938年頃
出典:村瀬守保写真集『私の従軍中国戦線 一兵士が写した戦場の記録』(初出:日本機関紙出版センター,1987年)新版:2005年

 
慰安婦は「自発的に応募した」「自由意志だった」「強制ではない」、さらには軍や警察は「違法な業者を厳しく取り締まっていた」等々、慰安婦問題を否定する人々によって熱心に宣伝されているデマがありますが、そうした人々が無視している資料に、元日本軍将兵軍属が手記や証言のなかで慰安婦に言及している口述資料というものがいくつも存在します。
それら口述資料*1を用いて個々の事例を考察していきます。

 
以下、 引用文の中略には「……」を入れています。強調、改行は引用者によります。

 
最初に紹介する証言は、秦郁彦氏が著書『慰安婦戦場の性』のなかで「信頼性が高いと判断してえらんだ」もののひとつです。

 
第五十九師団(済南駐屯)の伍長・榎本正代の証言
場所:中国中部の山東省
 一九四一年のある日、国防婦人会による〈大陸慰問団〉という日本人女性二百人がやってきた……(慰問品を届け)カッポウ着姿も軽やかに、部隊の炊事手伝いなどをして帰るのだといわれたが……皇軍相手の売春婦にさせられた。“目的はちがったけど、こんなに遠くに来てしまったからには仕方ないわ”が彼女らのよくこぼすグチであった。将校クラブにも、九州女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた
秦郁彦慰安婦戦場の性』新潮社,1999年,p.382)

 
この証言について歴史研究者の永井和教授は論文日本軍の慰安所政策について http://b.hatena.ne.jp/entry/image/http://nagaikazu.la.coocan.jp/works/guniansyo.html』の中で次のように述べています。
 この例も、話が事実なら、同様に国外誘拐罪、国外移送罪(当時の刑法はこちらを参照*2)の被害者である。内務省警保局長通牒の基準が厳格に守られていたのであれば、こういう例は未然に防止されたはずである。しかしながら、未然に防止されるどころか、事後においても被害者が救済されたり、犯罪事件が告発された形跡がない。女性を送り出す地域の警察も、送られてきた側で軍慰安所を管理していた軍も、いずれもこのような犯罪行為に何ら手を打っていないのである。
 軍慰安所の維持のためにはやむをえない必要悪だとして、組織的に「見て見ぬふり」をしなければ、とうていこのようことはおこりえないはずである。
 一九三七年末から一九三八年初めにかけて軍慰安所が軍の後方組織として認知されたことにより、事実上刑法旧第二二六条はザル法と化す道が開かれたのだといってよい。それは警保局長通牒が空文化したことを意味する。

 
論文に出てくる『内務省警保局長通牒(原文はこちらを参照*3)』には、現在の警察庁長官に相当する内務省警保局長から全国の各庁府県長官宛に出された通牒『支那渡航婦女の取扱に関する件』 (1938年2月23日)というものがあります。
この通牒は「婦女・児童の売買を禁止する国際条約*4」(未成年の女性を売春に従事させることを禁止し、成年であっても、詐欺(誘拐)などによる強制的手段が介在していれば刑事罰に問われることを定めた国際条約。)に接触しないよう指示した箇所があるのですが、初めから「北支、中支方面に向ふ者に限り当分の間之を黙認」して出国に必要な「身分証明を付与」すると抜け穴が作られているのです。
さらにこの通牒は日本国内に限定されたもので、朝鮮台湾といった植民地では出されていないのです。そのため植民地からは未成年の女性たちが制限無しに国外に誘拐・拉致、人身売買といった強制的手段で連れて行かれたと考えられています。


 
長尾和郎『関東軍軍隊日記 - 一兵士の生と死と』経済往来社,1968年
関東軍兵士の記録、場所:中国東北部黒竜江省
 東満の東寧(とうねい)の町にも、朝鮮女性の施設が町はずれにあった。その数は知る由もなかったが、朝鮮女性ばかりではなく日本女性も…… (一般兵用)施設は藁筵(むしろ)でかこまれた粗末な小屋で、三畳ぐらいの板の間にせんべい布団を敷き、その上に仰向けになった女性の姿を見たとき、私の心には小さなヒューマニズムが燃えた。一日に何人の兵隊と営業するのか。外に列を作っている兵隊たちを一人一人殴りつけてやりたい義憤めいた衝動を覚え、その場を立ち去った。
 これらの朝鮮女性は「従軍看護婦募集」の体裁のいい広告につられてかき集められたため、施設で営業するとは思ってもいなかったという。それが満州各地に送りこまれて、いわば兵士達の排泄処理の道具に身を落とす運命になった。わたしは甘い感傷家であったかもしれないが、戦争に挑む人間という動物の排泄処理には、心底から幻滅を覚えた。……
 おれは東京吉原、洲崎の悪所は体験済みだが、東寧の慰安婦はご免だ。あれじゃ人体でなく排泄装置の部分品みたいなものだが、伊藤上等兵も同感する。

 
「東満」地域とは、1943年10月1日、満州国にかつて存在した3省、牡丹江・間島・東安を総括し設置された「東満総省」の地域を指し、「洲崎」とは現在の江東区東陽町にかつてあった遊郭街のことです。
この慰安所にいた朝鮮人女性たちは「従軍看護婦」の「募集」だと騙されて国外に連れて行かれています。これは当時でも誘拐・拉致という犯罪で刑法226条に違反しているのですが、女性たちの身元も調査しているはずの軍の方で送り返すなどした様子もなく、女性たちは軍の管理下にある慰安所で軍人の性の相手を強要されています。
また、当時この兵士は、慰安所のあまりに人権が無視されている状況に「義憤めいた衝動を覚え」「外に列を作っている兵隊たちを一人一人殴りつけてやりたい」と感じたと書いています。この後でも紹介するように、慰安婦の状況を非人道的だと感じた日本軍将兵の手記や証言というものはけっして少なくありません。


 
『私たちと戦争〈2〉戦争体験文集』タイムス,1977年,p.32
島本重三 軍「慰安所
第七三三部隊工兵一等兵の記録、場所:中国東北部吉林省・琿春
 兵隊専用のピー屋(慰安所)は琿春の町に五軒散在していた。一軒の店に十人ほどの女がいた。『兵隊サン、男ニナリナサイ』。朝鮮の女たちは道ばたに出て兵隊を呼びこんでいた。まだ幼い顔の女もまじっていた。
 兵隊の慰問のために働くのは立派なことで、その上に金をもうけられると誘われ、遠い所までつれてこられた。気がついたときは帰るにも帰れず、彼女らは飢えた兵隊の餌食として躯(からだ)を投げださねばならなかった。
 日曜日にはけだものとなった兵隊を相手に少しも休むまもなかった。まだ終らないうちから次の兵隊が戸を叩いてせかした。ベニヤ板張りの小さな部屋には、貧弱な鏡台とトランクがあった。それが彼女の全財産であった。
 せんべい布団を被ううす汚れた敷布には、解剖台のような気味の悪い血がしみついていた。生理のときも休むことを許されず、働かねばならない女たちであった。

 
「まだ幼い顔のまじった」朝鮮人の女性たちは騙されて国外に連れて行かれており、刑法226条の国外移送目的誘拐罪、国外移送罪などに当たり、国際条約にも違反している可能性が高いのです。しかし慰安所を管理する軍はここでも業者を不処罰としており、女性たちを送り返した様子がありません。


(つづく)