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吉見裁判準備書面で吉見サイドが掲げた1次、2次史料集 その2「慰安婦

(前ペーシからの続き)

この部分は主として被告が述べた「日本人捕虜尋問報告」第49号(乙第9号証)の解釈への反論となっている。

被告第三準備書面では「日本人捕虜尋問報告」第49号(乙第9号証)を根拠に、①「慰安婦」は「相当な高収入」であった、②「廃業の自由」・「外出の自由」・「拒否の自由(接客拒否権)」が認められていた、と述べているので、これらの解釈がいづれも事実誤認による誤った断定であることを証明するのが、この部分である。
引用されている1次、2次史料は多岐にわたるが、全体としてみごとな整合性を有している。

そして、被告桜内サイドが引用している理屈の多くが秦郁彦氏の論説であることから、自動的に秦郁彦氏の諸説に対する否定ともなっている。このあたりはいづれ、整理しておこう。
かつて、秦郁彦氏は、アジア女性基金の会議の席で、高崎氏に「吉見さんの書いたものは学術的だが、秦さんのは見劣りする。」と言われた(「現代史の対決」p114)。同じことをp118にも書いており、このことがさらに秦氏吉見氏への対抗心を引き出したのであろうことが推測できる。
その後秦氏書いた論文はボツとなったので「現代史の対決」では、高崎氏や和田氏に対する私怨が爆発し、粘着質な批判を行っている。

しかし結局のところ秦氏の「慰安婦」論(「慰安婦と戦場の性」など)は、「沖縄戦論説」に関する一連の著作と同様に、産経新聞や「正論」誌、「Will」、「文芸春秋」などの右派雑誌やネトウヨには高い評価を受けていても、ほとんどの歴史学者によっては評価されていない。高崎氏や和田氏との対立となった慰安婦の人数の説明についても、永井和氏による検証がなされ、本ブログですでに批判を行っている。http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64336073.html http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64350703.html
それは右派であるとか左派であるとかいう以前に資料のずさんな扱い方や解釈と論説の矛盾・大きすぎる変節にあることは明らかであろう。

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より、抜粋

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    軍慰安所における「慰安婦」の状態について



これは遊郭における収奪

昭和三年に於ける娼妓一人当り一日遊客平均数は二人と一分二厘、一ヶ月には六拾三人と六分、一年三百六拾五日には七百六拾三人の遊客に笑ひを売り、其れでやッと一ヶ年に六百六拾余円の所得に過ぎない。……此内から前借を返へし、或事情と楼主によると利子を取られ、残りが玉割と称し日々の小遣ひ衣服装身具髪結銭化粧代に用ゐるのであるから、容易に濁り江から浮き上ることの出来ざるのも無理ならざることである。(甲第47号証、草間『灯の女闇の女』玄林社、1937〔昭和12〕年、226頁)
 
在日の元「慰安婦」、宋神道は、1938(昭和13)年末に武昌の「世界館」という軍慰安所に入れられ、はじめて軍人(軍医)の相手をさせられた時に、拒否してつぎのような目にあっている。
そしたら帳場が、言うことを聞かないとか、そんなことをするから朝鮮帰れないとか、いろんなことを言って殴るんだ。髪をひっぱって殴ったり、蹴っとばしたり、鼻血が出るくらい殴る。お前は借金背負ってきたんだから、借金払って行けだとかさ。その借金というのは何やと聞くと、着物買ったとか、おまえをひっぱって来るとき、まんまだの、汽車だの、船だの乗って来ただとか、そういうようなことをしゃべりまくって。着物は自分たちで勝手に買ってきて、これ着てやるんだとか言ったけど、その着物の着方も分らないし、いらないと言ったら、じゃあ、お前はワンピースでもいいじゃないかなと言って、ワンピースは一つもらったつもりでいたら、それが借金だと、こう言うわけだよ。……私ばかりじゃなくて、ほかの人間たちもそうやって責められて、いじめられていたわけだよ。(甲第48号証、西野瑠美子・金富子責任編集『証言 未来への記憶』南・北・在日コリア編、上巻、明石書店、2006〔平成18〕年、48頁)
 
このようにして、宋神道は借金漬けにされ、そのことを理由に軍人の性の相手を強制されたのである。

乙第9号証の被告が引用を避けたところをみると、
「多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしたため、彼女たちは生活困難に陥った」(445頁)。
 と記されているので、ミッチナの「慰安婦」の場合もほぼ同様であったということになる。


また、同じ人々から聞き取りをした別のより詳しい米軍資料、東南アジア翻訳尋問センター「心理戦 尋問報告」第2号(1944〔昭和19〕年11月30日)によれば、
慰安婦一人の稼ぎの最高額は月に約一五〇〇円、最低額は月に約三〇〇円であった」(甲第49号証、460頁)

 とあるので、この1500円というのは最高額とみるべきである。なお、月に1500円を稼ぐためには、兵士の利用料金は1円50銭だったとあるから、1ヵ月に25日軍人の相手をしたと仮定すると、連日40名の兵士の相手をしたことになり、まずありえない数値というべきだろう(下士官や将校を相手にすると、人数はやや少なくなるが、それでもありえない数値となるだろう)。

乙第6号証によれば、
東京玉ノ井の女性たちの収入は32円から240円(平均72円、1938〔昭和13〕年)だったというから(389頁)
 、これを援用すれば、ミッチナでの「慰安婦」の平均収入は、取り分が50%の場合、最低150円、最高750円で、平均225円程度となる

なぜ女性たちが「生活困難に陥」るのか、ということについて改めて検討してみると、軍人が払う慰安所料金は「慰安婦」に直接渡されることはなく、業者が受取ったが、「心理戦 尋問報告」第2号によれば、業者は「衣服、必需品、奢侈品を法外な値段で慰安婦に売ることによって余禄を得」たため(甲第49号証、460頁)、女性たちに渡る額は多くはなかったからである。
また、日本軍占領地ではどこも極端なインフレーションが進行し、物価が著しく高騰していたからでもある。たとえば、インドネシア(北スマトラ)にいた近衛師団将校だった総山(ふさやま)孝雄日本学士院会員は、
「〔戦争の末期には〕インフレーションで軍票の価値がどんどん下がり、町の食堂ではラーメン一杯の値段が将校の1ヵ月分の給料ぐらいになりました」(甲第50号証、インドネシア日本占領期史料フォーラム編『証言集――日本軍占領下のインドネシア』龍溪書舎、1991〔平成3〕年、79頁)。
 と回想している。


ビルマでは、それよりも激しいインフレーションが進行した。歴史学者の太田常蔵は、
「一九年〔1944年〕後半以降の戦況の不利は、軍票の価値を減少させ、二〇年三月マンダレー失陥後は、軍票はほとんど無価値になってしまった」(甲第51号証、太田『ビルマにおける日本軍政史の研究』吉川弘文館、1967〔昭和42〕年、440頁)
 と述べている。

日本銀行の統計によると、
ラングーンでは、1941(昭和16)年12月を基準とすると、物価は1943(昭和18)年6月には9倍に、9月には12.5倍に、12月には17.2倍に、1944(昭和19)年6月には36.4倍に、9月には57.7倍に、1945(昭和20)年3月には127倍に、6月には306倍なっている(甲第52号証、日本銀行統計局『戦時中金融統計要覧』1947〔昭和22〕年、表57、161頁)
 
しかし、同じ甲第52号証の表49、表56によれば、東京やソウルの物価はあまり高騰していないのだから(1941年12月を基準とすると1944年6月の物価は東京では1.18倍、ソウルでは1.26倍、144頁、160頁)、1944(昭和19)年6月のビルマ(ラングーン)での最高の取り分750円がすべて「慰安婦」に渡されていたと仮定しても、東京では24.3円、ソウルでは26.0円程度の価値しかなかった。平均225円程度だとすると、東京では7.3円、ソウルでは7.8円程度の価値しかない。
     秦元教授は、ミッチナの「慰安婦」の収入は

「内地の五倍以上、平壌遊廓の女たちに比べると十倍以上を稼ぎ出していた」というが(乙第6号証、392頁)
 、その比較対象となる娼妓等の収入は、先述のように東京玉ノ井で32円から240円(平均72円、1938〔昭和13〕年)、平壌で30-40円(1940〔昭和15〕年)だというのだから(389頁)、ミッチナの「慰安婦」の収入は、ビルマの激しいインフレを考慮すれば、内地や平壌の遊廓の娼妓以下の収入しかなかったことになるであろう。
一見「高収入」のようにみえるが、それは外見だけで、実際には業者から搾取されたため、また、極端なインフレーションのため、収入はあったとしても、ごく少額だったのである。


つぎに、前線または前線近くに設置された第二のタイプの軍慰安所の、とくに略取・監禁型の軍慰安所では、料金はまったく支払われなかった。逆に、
「中国人第二次裁判」の原告、侯巧蓮は、解放されるために、銀700元を支払わなければならなかった(甲第36号証、7頁)
 

    

           「廃業の自由」の有無について


次に、被告第三準備書面は、「廃業の自由、外出の自由が認められていた他、実際、拒否の自由(接客拒否権)が認められていた」と述べているが(10頁)、これも誤りであることを明らかにしたい。


まず、「廃業の自由」とは何かを、被告は理解できていない。「廃業の自由」とは、内務省令第44号「娼妓取締規則」(1900〔明治33〕年10月2日)が認めている自由廃業の権利に該当するものであり、その第5条には
「娼妓名簿削除ノ申請ハ書面又ハ口頭ヲ以テスヘシ……警察官署ニ於テ娼妓名簿削除申請ヲ受理シタルトキハ直チニ名簿ヲ削除スルモノトス」とある(甲第53号証、17頁)。
 このように、「廃業の自由(自由廃業の権利)」とは、娼妓が廃業したいと思えば、警察署に廃業願いを出すことにより即時に廃業できる権利のことである。被告がいうように「借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める」(8頁)というのは、借金を返済しない限り廃業を認めないということであって、これは「廃業の自由」がないことを示しており、「慰安婦」制度が性奴隷制であること証明するものである。

次に、これまでに発見されている多くの軍慰安所規定をみると、「廃業の自由」を認める規定はひとつもない。このことは、軍が女性たちに「廃業の自由(自由廃業の権利)」を認めなかった何よりの証拠となる。
ところで、被告第三準備書面は秦元教授の著作を引用し、「廃業の自由や外出の自由について言えば、看護婦も一般兵士も同じように制限されていた」とも主張している(8頁)。これは、「慰安婦」には「廃業の自由」も「外出の自由」も制限されていたと認めたものであり、自らの主張を自ら否定するものというべきであろう。

なお、付言すれば、兵士や従軍看護婦の場合も「廃業の自由」や「外出の自由」が制限されていたのではなく、そのような自由がそもそもなかったのであるが、兵士は憲法によって兵役の義務を、従軍看護婦は法律によって勤務の義務を課されたものであるのに対し、「慰安婦」には軍人・軍属の性の相手をしなければならない法律上のいかなる義務もないだけではなく、略取または誘拐または人身売買されて、軍人・軍属の性の相手をさせられているのであり、とうてい同様の境遇であるとはいえない。
また、被告第三準備書面は、「この点〔廃業の自由、外出の自由の制限〕は、現代のサラリーマンも変らない」というが(8頁)、現代のサラリーマンは、会社をいつでも辞める権利をもっているのであり、また、勤務時間外や休日には、許可なく自由に外出ができるのである。現代のサラリーマンには「廃業の自由」「外出の自由」がないという議論は暴論というしかない。

  

     「外出の自由」の有無について

次に、被告第三準備書面は、「慰安婦」たちは「都会では買いものに出ることが許された」という記録があるから「外出の自由」はあったと述べているが(8頁)、これも誤りである。これは、都会にある軍慰安所では外出は許可制だったということを示しており、都会以外では外出は許されなかったということである。
     なお、念のために述べれば、許可制であれば「外出の自由」はない、ということになる。日本国内では、公娼制下の娼妓たちは外出に際しては警察署の許可をえなければならないことになっていた。しかし、とくに1920年代以降、これは女性たちを「籠の鳥」状態にしてその自由を拘束するものだという批判がたかまっていった。このため、内務省は、1933(昭和8)年5月23日、省令第15号により
「娼妓取締規則」第7条第2項の「娼妓ハ法令ノ規定若ハ官庁ノ命令ニ依リ又ハ警察官署ニ出頭スルカ為外出スル場合ノ外警察官署ノ許可ヲ受クルニ非サレハ外出スルコトヲ得ス……」(甲第53号証の2)。
 という規定を削除した。

この改正の趣旨について、内務省警保局長は
「今般娼妓の自由を確保せんが為其の外出は所轄警察署の許可を要せざる様娼妓取締規則改正相成候」と説明しており(甲第54号証、「風俗取締に関する件依命通牒」1933(昭和8)年5月23日、『福岡県警察史』昭和前篇、福岡県警察本部、1980(昭和55)年、185頁)
 福岡県警察史』はこれを「籠の鳥解放令」と評価している(同182頁)。

このように、娼妓にはようやく1933(昭和8)年に「外出の自由」が保障されることになったのだが、許可制であれば「外出の自由」があるとはいえない、と当時の内務省も認識していたのである。
なお、乙第9号証のような二次資料だけでなく、日本軍が作成した一次資料である軍慰安所規定をみると、「慰安婦」の外出を禁止したり、許可制とする規定がたくさんある。

たとえば、独立攻城重砲兵第2大隊が作成した「常州駐屯間内務規定」(1938〔昭和13〕年3月)は、
「営業者〔慰安婦〕ハ特ニ許シタル場所以外ニ外出スルヲ禁ス」(甲第55号証、防衛研究所図書館所蔵)
 と規定している。

立山砲兵第3連隊「森川部隊特種慰安業務ニ関スル規定」(1939〔昭和14〕年11月14日)は
慰安婦ノ外出ニ関シテハ連隊長ノ許可ヲ受クベシ」(甲第56号証、防衛研究所図書館所蔵)
  と規定している。

比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所「慰安所規定(第一慰安所亜細亜会館)」(1942〔昭和17〕年11月22日)は慰安所経営者に

慰安婦外出ヲ厳重取締」(甲第57号証、防衛研究所図書館所蔵)
 するよう規定している
また、「慰安婦」の散歩区域も公園を囲む1ブロック区画に制限し、散歩時間も朝8時から10時までに限定している。

マンダレー」駐屯地司令部「駐屯地慰安所規定」(1943〔昭和18〕年5月26日)は
慰安婦ノ他出ニ際シテハ経営者ノ証印アル他出証ヲ携行セシムルモノトス」(甲第58号証、女性のためのアジア平和国民基金編『「従軍慰安婦」関係資料集成』第4巻、龍渓書舎、1998〔平成10〕年、290頁)。

 と規定している。

このように、軍は、「慰安婦」の外出を認めないか、許可制にしているのであり、「慰安婦」に「外出の自由」がなかったということは、資料的に明白である。