吉見裁判準備書面で吉見サイドが掲げた一次、二次史料集
歴史の真相を探ろうとするものにとって、一次史料の探索は欠かせない。現代の実証的な歴史学は、<広範な一次史料の収集>と<史料批判>によって成立していると言ってもよい程である。吉見教授は1992年12月に刊行した『従軍慰安婦資料集』ですでに今日にいたるまで多くの論文で使用されている貴重な史料を発掘し、世に出している。それ以後も史料の収集は広くなされており、河野談話(1993,8)以降2014年今日まで発掘収集された公文史料は519点にものぼり、公文以外の軍人の日記や軍記なども多数発掘収集されてきた。
しかしその真相が「大東亜戦争は聖戦だった」としたい勢力にとっては 不都合だったようだ。
吉見氏の著作に対して、その著作を読まないくせに右派論壇やネトウヨたちの攻撃が盛んになされている。
桜内議員が外国人記者クラブで否定した吉見氏の著作である『従軍慰安婦』は、そのような著作の一つであり、この裁判はその<侵略戦争正当化グループ>との対決の様相を見せている。参加者の話によると”動員された”と思わしき一団が抽選に並び、桜内議員を応援していたという。
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より、抜粋
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< 慰安所は軍の施設として、戦地に派遣された各部隊に設置されたのである>
1939(昭和14)年4月15日、第21軍司令部の松村軍医部長は、「性病予防等のため兵100人につき1名の割合で慰安隊を輸入す。1,400-1,600名。治療は博愛病院にて行いその費用は楼主これを負担す。検黴は週2回」と報告している(甲第20号証、『戦争責任研究』創刊号、1993(平成5)年9月、21頁)
徴募に際しては、
軍慰安所の管理・統制も軍が行った。
軍司令部・師団等が設置したものと、前線で設置したものがあることが分かる。
1943(昭和18)年、第35師団は、慰安所を含む「営外施設」の規定を設けているが、これによれば、慰安所は中隊以上の駐屯地に設置できるとし(19条)、その管理・経営・指導監督は駐屯地の高級先任部隊長が行い(3条)、建物は部隊が提供し(21条)、飲食品等・薬品・防護品等は部隊から交付できる(22条、23条)と規定している(甲第24号証、アジア歴史資料センター撮影資料)
軍の深い関与が示されている。
徴募形態について
<女性たちがどのような形態で徴募されたかは第一義的な問題ではないが>
小俣行男元読売新聞記者の回想によれば、
海外の戦地・占領地の場合
誘拐や人身売買のケースもあるが、軍が地元の有力者に女性を差し出すよう要求し、やむなく女性たちを差し出す、事実上の強制のケースも少なくなかった。
さて、局部の内診となると、ますます恥ずかしがって、なかなか褲子クーツ(ズボン)をぬがない。通訳と〔治安〕維持会長が怒鳴りつけてやっとぬがせる。寝台に仰臥位にして触診すると、夢中になって手をひっ掻く。見ると泣いている。部屋を出てからもしばらく泣いていたそうである。次の姑娘クーニャンも同様でこっちも泣きたいくらいである。みんなもこんな恥ずかしいことは初めての体験であろうし、なにしろ目的が目的なのだから、屈辱感を覚えるのは当然のことであろう。保長や維持会長たちから、村の治安のためと懇々と説得され、泣く泣くきたのであろうか?なかには、お金を儲けることができると言われ、応募したものもいるかも知れないが、戦に敗れると惨めなものである。検診している自分も楽しくてやっているのではない。こういう仕事は自分には向かないし、人間性を蹂躙しているという意識が、念頭から離れない。(甲第31号証、溝部一人編『独山二』私家版、1983(昭和58)年、58頁)
この日記は、地元の有力者が軍の要求を断れず、女性たちが事実上の強制により差し出されたことをよく示している。
現在では、河野談話発表の当時、法務省から「バタビア臨時軍法会議の記録」という、オランダによる2件のBC級戦犯裁判の判決概要をまとめた資料が提出されていたことが分かっている。その中には、インドネシアのスマラン事件の判決概要が摘記されており、たとえば
「1944(昭和19)年2月末ころから同年4月までの間、部下の軍人や民間人が上記女性ら〔抑留所に収容中のオランダ人女性ら〕に対し、売春させる目的で上記〔スマランの〕慰安所に連行し、宿泊させ、脅すなどして売春を強要するなどした……」という記述がある(甲第32号証)。
中国については、山西省の盂県でのケースが3件の裁判になった。請求は棄却されたが、裁判所で事実認定がなされている。その概要をみると次のようになる。
まず、中国人「慰安婦」損害賠償請求事件の第1次訴訟の東京高裁判決(2004〔平成16〕年12月15日)は、次のように認定している。
また、東京高裁は、この認定を踏襲している(甲第37 号証、5頁)。
1940(昭和15)年末から1944(昭和19)年初めにかけての性暴力被害の状況をほぼ原告の主張通りに認定した(甲第39号証、29頁、45頁乃至60頁)。また、東京高裁は、この認定を踏襲している。ⅳ 海南島戦時性暴力被害賠償請求事件の東京高裁判決(2009〔平成21〕年3月26日)も、8名の女性が日本軍に監禁・強姦された事件について「軍の力により威圧しあるいは脅迫して自己の性欲を満足させるために凌辱の限りを尽くした」と認定している(甲第40号証、20頁乃至31頁)。
桂林を占領している間、日本軍は強姦と掠奪のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した。(甲第41号証、770頁)
これは、軍による誘拐である。
ⅰ オランダ領東インド(インドネシア)では、軍・官憲による略取について、1944(昭和19)年に発表されたオランダ政府の報告書により、多くの事例が確認される(甲第42号証、「日本占領下オランダ領東印度におけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書報告」、梶村太一郎ほか編『「慰安婦」強制連行』株式会社金曜日、2008〔平成20〕年)。
第1は、マゲランのケースであるが、これは、
1944(昭和19)年1月、ムンティラン抑留所から、日本軍と警察が女性たちを選別し、反対する抑留所住民の暴動を抑圧して連行したというものである。その一部は送り帰され、替わりに「志願者」が送られる。残りの13名の女性は、マゲランに連行され、売春を強制されたと記録されている(228-229頁)。
第2は、スマラン慰安所事件である。この事件は
1944(昭和19)年2月、スマラン近郊の3つの抑留所から、すくなくとも24名の女性たちがスマランに連行され、売春を強制されたというものである。その後、逃げだした2名は警官につかまり、連れ戻される。1名は精神病院に入院させられ、1名は自殺を企てるところまで追い込まれる。1名は妊娠し、中絶手術を受けている(230頁)。
第3は、
第4は、
1943(昭和18)年8月、シトボンドの憲兵将校と警察が4人のヨーロッパ人女性に出頭を命じたというケースである。女性たちはパシール・プチのホテルにつれて行かれて2日間強姦され、そのうち、2名は自殺を図った、と記されている(232頁)。
第5は、
1943(昭和18)年10月、憲兵将校が上記2名の少女と他の4名の女性をボンドウオソのホテルに連行したというケースである。他に8名が連行された、と記されている(232頁)。
第7は、未遂事件であるが、
1943(昭和18)年12月、ジャワ島のソロ抑留所から日本軍が女性たちを連行しようとしたが、抑留所のリーダーたちによって阻止された、と記されている(234頁)。
第8は、パダンのケースで、
1943(昭和18)年10月頃から、日本軍はパダンの抑留所から25名の女性をフォートデコックに連行しようとしたが、抑留所のリーダーたちが断固拒否したというものである。しかし、11名が抑留所よりはましだと考えて「説得」に応じた、と記されている(236頁)
このケースも、食料の極端な不足など、抑留所の劣悪で絶望的な環境を考えると、「自由意志」によるとはいいがたいものがある。
以上は、オランダ政府が、自らが持っている資料に基づいて、少なくともこういうケースがあったと述べているものである。白人の被害を中心に記述し、また、強制の範囲を非常に狭く取って解釈をしているが、それでも、軍が直接手を下した略取に限っても、これだけの事例が確認されている。
次に、インドネシア人の被害のケースを挙げると、1945(昭和20)年3月以降、海軍第25特別根拠地隊がアンボン島で地元の女性たちを略取したことを、同隊附の主計将校だった坂部康正は、次のように回想している。
インドネシアのモア島で指揮官だったある日本陸軍中尉は、ロエアン島とセルマタ島の住民が憲兵隊を襲ったとして住民を処刑し、その娘たち5名を強制的に「娼家」に入れたことを認めている。以下はその陳述書の一部である(甲第44号証、Doc. No.5591、吉見義明監修『東京裁判――性暴力関係資料』現代史料出版、2011〔平成23〕年、236-237頁)。
問 或ル証人ハ貴方ガ婦女達ヲ強姦シソノ婦人達ハ兵営ヘ連レテ行カレ日本人達ノ用ニ供セラレタト言ヒマシタガソレハ本当デスカ答 私ハ兵隊達ノ為ニ娼家ヲ一軒設ケ私自身モ之ヲ利用シマシタ問 婦女達ハソノ娼家ニ行クコトヲ快諾シマシタカ答 或者ハ快諾シ或ル者ハ快諾シマセンデシタ問 幾人女ガソコニ居リマシタカ答 六人デス問 ソノ女達ノ中幾人ガ娼家ニ入ル様強ヒラレマシタカ答 五人デス問 ドウシテソレ等ノ婦女達ハ娼家ニ入ル様強ヒラレタノデスカ答 彼等ハ憲兵隊ヲ攻撃シタ者ノ娘達デアリマシタ