河野談話を守る会のブログ2

ヤフーブログ閉鎖のため移住しました

吉見裁判準備書面で吉見サイドが掲げた一次、二次史料集


歴史の真相を探ろうとするものにとって、一次史料の探索は欠かせない。現代の実証的な歴史学<広範な一次史料の収集>史料批判によって成立していると言ってもよい程である。吉見教授は1992年12月に刊行した従軍慰安婦資料集ですでに今日にいたるまで多くの論文で使用されている貴重な史料を発掘し、世に出している。それ以後も史料の収集は広くなされており、河野談話(1993,8)以降2014年今日まで発掘収集された公文史料は519点にものぼり、公文以外の軍人の日記や軍記なども多数発掘収集されてきた。

イメージ 1
こうした大量の史料によって従軍慰安婦の真相が解明されてきたのである。

しかしその真相が「大東亜戦争は聖戦だった」としたい勢力にとっては 不都合だったようだ。

吉見氏の著作に対して、その著作を読まないくせに右派論壇やネトウヨたちの攻撃が盛んになされている。
(『従軍慰安婦資料集』)


桜内議員が外国人記者クラブで否定した吉見氏の著作である従軍慰安婦は、そのような著作の一つであり、この裁判はその<侵略戦争正当化グループ>との対決の様相を見せている。参加者の話によると”動員された”と思わしき一団が抽選に並び、桜内議員を応援していたという。

イメージ 2

この記事では歴史の真相を探るために吉見裁判準備書面に使われている<広範な一次史料>を整理してお届けしよう。

結局はこのような<広範な一次史料>から、「日本軍慰安婦制度は性奴隷制度というしかない」ことが立証されているからである。



^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

より、抜粋

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
慰安所の設置・管理・統制に関する日本軍の関与
慰安所は業者が勝手につくることができるものでなかったことを示す史料


< 慰安所は軍の施設として、戦地に派遣された各部隊に設置されたのである>

1938(昭和13)年627日、北支那方面軍参謀長、岡部直三郎中将は、指揮下の各部隊に、中国住民に対する日本軍人の強姦を防ぐために「成ルヘク速ニ性的慰安ノ設備ヲ整へ」よ、と指示している(甲第19号証、防衛省防衛研究所図書館所蔵)。
 

1939(昭和14)年415日、第21軍司令部の松村軍医部長は、「性病予防等のため兵100人につき1名の割合で慰安隊を輸入す。1,4001,600名。治療は博愛病院にて行いその費用は楼主これを負担す。検黴は週2回」と報告している(甲第20号証、『戦争責任研究』創刊号、1993(平成5)年9月、21頁)
陸軍(軍司令部等)は上から兵100名につき1名の割合で「慰安婦」を徴募していたことがわかる。また、設置の理由に「性病予防」が明記されていることがわかる。


1942(昭和17)年93日、倉本敬次郎陸軍省恩賞課長は、「将校以下の慰安施設を次の通り作りたり」として「北支100ケ、中支140、南支40、南方100、南海〔太平洋地域〕10樺太10、計400ケ所」という数字を挙げている(甲第21号証、防衛研究所図書館所蔵)
これは、陸軍が全体で400の地域に軍慰安所をつくったということである。

徴募に際しては、
1938(昭和13)年34日、陸軍省は、副官通牒において、北支那方面軍と中支那派遣軍に対して、募集等に当っては「派遣軍ニ於テ統制」し、業者の「選定ヲ周到適切ニ」すること、募集実施に当たっては「関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密ニ」することを指示している(甲第22号証、防衛研究所図書館所蔵)
陸軍省は、派遣軍が慰安所をつくることを承認し、業者の選定や徴募実施の方法を指示した。

慰安所の管理・統制も軍が行った。
21軍司令部は、1939(昭和14)年4月第2旬の報告で、「慰安所ハ所管警備隊長及憲兵隊監督ノ下ニ警備地区内将校以下ノ為開業セシメアリ」とし、「慰安婦」の総数は、軍司令部が統制する者が約850名、各部隊が郷土から呼び寄せた者が約150名、合計約1000名で、これ以外に第一線で設置したものが若干あると述べている(甲第23号証、防衛研究所図書館所蔵)
軍司令部・師団等が設置したものと、前線で設置したものがあることが分かる。


1943(昭和18)年、第35師団は、慰安所を含む「営外施設」の規定を設けているが、これによれば、慰安所は中隊以上の駐屯地に設置できるとし(19条)、その管理・経営・指導監督は駐屯地の高級先任部隊長が行い(3条)、建物は部隊が提供し(21条)、飲食品等・薬品・防護品等は部隊から交付できる(22条、23条)と規定している(甲第24号証、アジア歴史資料センター撮影資料)
軍の深い関与が示されている。



          徴募形態について

<女性たちがどのような形態で徴募されたかは第一義的な問題ではないが>

第3航空軍燃料補給廠の通訳としてシンガポールにいた永瀬隆は、次のように語っている。
私は朝鮮人慰安婦に日本語を三回くらい教えましたが、彼女たちは私が兵隊ではないのを知っていたので、本当のことを話してくれました。
「通訳さん、実は私たちは国を出るとき、シンガポールの食堂でウェイトレスをやれと言われました。そのときにもらった百円は、家族にやって出てきました。そして、シンガポールに着いたら、慰安婦になれと言われたのです。」
彼女たちは私に取りすがるように言いました。しかし、私は一介の通訳として軍の権力に反することは何もできません。彼女たちが気の毒で、なにもそんな嘘までついて連れてこなくてもいいのにと思いました。(甲第28号証、青山学院大学プロジェクト95編『青山学院と出陣学徒』私家版、東京都、1995(平成7)年、218頁)
これは、誘拐と人身売買が重なっているケース


歩兵第59連隊第3大隊の元兵士、松本正嘉の記録によれば、1942(昭和17)年末、中国東北の周水子の軍慰安所、「八千代館」にいた朝鮮人慰安婦」から次のような話を聞いている。
この非常時に朝鮮の同胞がお国にためにつくせないのが残念だ。祖国防衛のために苦労している将兵に、何か慰問できたらと思っていた時、日本人の悪質な業者に「皇軍慰問に行かないか」と誘われて、いくらかの現金を受領して契約書に捺印したら、人身売買が成立し合法的に奴隷になってしまった。現地に来て慰問の手段に驚いたが、すでに遅かった。生ける屍になったのだ。(甲第29号証、松本『わが太平洋戦記』私家版、札幌市、2001(平成13)年、141頁)
これも、誘拐と人身売買が重なったケース


小俣行男元読売新聞記者の回想によれば、
1942年にラングーンに朝鮮から40~50名の女性が上陸した。軍慰安所を開設したので、新聞記者たちには特別サービスをするから、というので大喜びで彼は軍慰安所に行くが、実際に小俣記者の相手になった女性は23、24歳の女性で、「公学校」で〔正確には1941(昭和16)年以降初等学校は朝鮮でも国民学校とよばれていた〕先生をしていたという。「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」と聞くと、彼女はだまされて連れてこられたと語っている(甲第30号証、小俣『戦場と記者』冬樹社、1967年、333頁)。
これは誘拐のケースである。国民学校の元教員はそのまま慰安所に入れられており、解放されていない。連れて行った業者も逮捕されていない。こういう状況がまかり通っていたのである。


朝鮮の女性たちが、誘拐か人身売買により移送されたことは秦郁彦日本大学教授も認めている。その著書『慰安婦と戦場の性』では、彼が「信頼性が高いと判断してえらんだ」元軍人などの証言が9例あげられており(乙第6号証、382-383頁、386-387頁)、うち4例が朝鮮人女性のケースであるが、3例が誘拐、1例が人身売買である(ほかに日本人女性の誘拐が2例、略取が1例、ビルマでの未遂が1例、シンガポールでの募集が1例)。
朝鮮人女性の4例のうちのひとつを見てみると、鈴木卓四郎元憲兵曹長は、南寧の慰安所の若い朝鮮人業者(地主の次男坊だった)から、「契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂」と言われたので地元の小作人の娘を連れて来た、と聞いている。この青年は「<兄さん>としたう若い子に売春を強いねばならぬ責任を深く感じているようだった」と述べているので、業者もだまされたというケースである(乙第6号証、383頁)。これは誘拐であり、女性たちは軍人の性の相手となることを強制されている、ということになる。
 


           海外の戦地・占領地の場合


誘拐や人身売買のケースもあるが、軍が地元の有力者に女性を差し出すよう要求し、やむなく女性たちを差し出す、事実上の強制のケースも少なくなかった。

たとえば、1940(昭和15)年8月11日に、湖北省董市付近のある村で、「慰安婦」の性病検査を行った独立山砲兵第二連隊第二大隊の山口時男軍医の次の日記は
さて、局部の内診となると、ますます恥ずかしがって、なかなか褲子クーツ(ズボン)をぬがない。通訳と〔治安〕維持会長が怒鳴りつけてやっとぬがせる。寝台に仰臥位にして触診すると、夢中になって手をひっ掻く。見ると泣いている。部屋を出てからもしばらく泣いていたそうである。
次の姑娘クーニャンも同様でこっちも泣きたいくらいである。みんなもこんな恥ずかしいことは初めての体験であろうし、なにしろ目的が目的なのだから、屈辱感を覚えるのは当然のことであろう。保長や維持会長たちから、村の治安のためと懇々と説得され、泣く泣くきたのであろうか?
なかには、お金を儲けることができると言われ、応募したものもいるかも知れないが、戦に敗れると惨めなものである。検診している自分も楽しくてやっているのではない。こういう仕事は自分には向かないし、人間性を蹂躙しているという意識が、念頭から離れない。(甲第31号証、溝部一人編『独山二』私家版、1983(昭和58)年、58頁)
 
この日記は、地元の有力者が軍の要求を断れず、女性たちが事実上の強制により差し出されたことをよく示している。

現在では、河野談話発表の当時、法務省から「バタビア臨時軍法会議の記録」という、オランダによる2件のBC級戦犯裁判の判決概要をまとめた資料が提出されていたことが分かっている。その中には、インドネシアのスマラン事件の判決概要が摘記されており、たとえば
「1944(昭和19)年2月末ころから同年4月までの間、部下の軍人や民間人が上記女性ら〔抑留所に収容中のオランダ人女性ら〕に対し、売春させる目的で上記〔スマランの〕慰安所に連行し、宿泊させ、脅すなどして売春を強要するなどした……」という記述がある(甲第32号証)。


中国については、山西省の盂県でのケースが3件の裁判になった。請求は棄却されたが、裁判所で事実認定がなされている。その概要をみると次のようになる。
 まず、中国人「慰安婦」損害賠償請求事件の第1次訴訟の東京高裁判決(2004〔平成16〕年12月15日)は、次のように認定している。
八路軍が一九四〇年八月に行った大規模な反撃作戦により、日本軍北支那方面軍は大損害を被ったが、これに対し、北支那方面軍は、同年から一九四二年にかけて徹底した掃討、破壊、封鎖作戦を実施し(いわゆる三光作戦)、日本軍構成員による中国人に対する残虐行為も行われることがあった。このような中で、日本軍構成員らによって、駐屯地近くに住む中国人女性(少女も含む。)を強制的に拉致・連行して強姦し、監禁状態にして連日強姦を繰り返す行為、いわゆる慰安婦状態にする事件があった(甲第35号証、27頁乃至28頁)。
 このように、中国山西省の李秀梅ら4名の女性が日本軍部隊に連行され、監禁・強姦され、「慰安婦状態」にされたことを明確に認定している。

次は、第2次訴訟の東京地裁判決(2002〔平成14〕年3月29日)・東京高裁判決(2005〔平成17〕年3月18日)である。
1942(昭和17)年、日本兵と清郷隊(日本軍に協力した中国人武装組織)が集落を襲撃し、山西省の原告郭喜翠と侯巧蓮を、暴力的に拉致し、監禁・輪姦した(郭はその後2回拉致・監禁・輪姦された)と認定している(甲第36号証、4頁乃至7頁)。
 また、東京高裁は、この認定を踏襲している(甲第37 号証、5頁)。

2007(平成19)年4月27日、最高裁判所は原告による上告を棄却したが、日本兵と清郷隊による暴力的な拉致と監禁・輪姦の事実を適示している(甲第38号証、2-3頁)


3番目は、山西省性暴力被害賠償等請求事件の東京地裁判決(2003〔平成15〕年4月24日)と東京高裁判決(2005〔平成17〕年3月31日)である。
東京地裁は、山西省の万愛花ら10名の女性の被害事実について、
1940(昭和15)年末から1944(昭和19)年初めにかけての性暴力被害の状況をほぼ原告の主張通りに認定した(甲第39号証、29頁、45頁乃至60頁)。また、東京高裁は、この認定を踏襲している。
ⅳ 海南島戦時性暴力被害賠償請求事件の東京高裁判決(2009〔平成21〕年3月26日)も、8名の女性が日本軍に監禁・強姦された事件について「軍の力により威圧しあるいは脅迫して自己の性欲を満足させるために凌辱の限りを尽くした」と認定している(甲第40号証、20頁乃至31頁)。


軍による略取ではないが、軍による誘拐のケースについては、極東国際軍事裁判東京裁判)の判決がある。これは中国の事例について、次のように述べている。
桂林を占領している間、日本軍は強姦と掠奪のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した。(甲第41号証、770頁)
 
これは、軍による誘拐である。

オランダ領東インドインドネシア
ⅰ オランダ領東インドインドネシア)では、軍・官憲による略取について、1944(昭和19)年に発表されたオランダ政府の報告書により、多くの事例が確認される(甲第42号証、「日本占領下オランダ領東印度におけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書報告」、梶村太一郎ほか編『「慰安婦」強制連行』株式会社金曜日、2008〔平成20〕年)。

第1は、マゲランのケースであるが、これは、
1944(昭和19)年1月、ムンティラン抑留所から、日本軍と警察が女性たちを選別し、反対する抑留所住民の暴動を抑圧して連行したというものである。その一部は送り帰され、替わりに「志願者」が送られる。残りの13名の女性は、マゲランに連行され、売春を強制されたと記録されている(228-229頁)。

第2は、スマラン慰安所事件である。この事件は
1944(昭和19)年2月、スマラン近郊の3つの抑留所から、すくなくとも24名の女性たちがスマランに連行され、売春を強制されたというものである。その後、逃げだした2名は警官につかまり、連れ戻される。1名は精神病院に入院させられ、1名は自殺を企てるところまで追い込まれる。1名は妊娠し、中絶手術を受けている(230頁)。

第3は、
1944(昭和19)年4月、憲兵と警察がスマランで約100人の女性を逮捕し、スマランクラブ(軍慰安所)で選定を行い、20名の女性をスラバヤに移送したというケースである。そのうち17名がフローレス島の軍慰安所に移送され、売春を強制された、と記されている(231-232頁)。

第4は、
1943(昭和18)年8月、シトボンドの憲兵将校と警察が4人のヨーロッパ人女性に出頭を命じたというケースである。女性たちはパシール・プチのホテルにつれて行かれて2日間強姦され、そのうち、2名は自殺を図った、と記されている(232頁)。

第5は、
1943(昭和18)年10月、憲兵将校が上記2名の少女と他の4名の女性をボンドウオソのホテルに連行したというケースである。他に8名が連行された、と記されている(232頁)。

第6は、
マランのケースで、ある女性の証言によると、マランの憲兵が3名のヨーロッパ人女性を監禁して「強姦、売春をちらつかせた」、と記されている(234頁)。

第7は、未遂事件であるが、
1943(昭和18)年12月、ジャワ島のソロ抑留所から日本軍が女性たちを連行しようとしたが、抑留所のリーダーたちによって阻止された、と記されている(234頁)。

第8は、パダンのケースで、
1943(昭和18)年10月頃から、日本軍はパダンの抑留所から25名の女性をフォートデコックに連行しようとしたが、抑留所のリーダーたちが断固拒否したというものである。しかし、11名が抑留所よりはましだと考えて「説得」に応じた、と記されている(236頁)
このケースも、食料の極端な不足など、抑留所の劣悪で絶望的な環境を考えると、「自由意志」によるとはいいがたいものがある。

以上は、オランダ政府が、自らが持っている資料に基づいて、少なくともこういうケースがあったと述べているものである。白人の被害を中心に記述し、また、強制の範囲を非常に狭く取って解釈をしているが、それでも、軍が直接手を下した略取に限っても、これだけの事例が確認されている。


次に、インドネシア人の被害のケースを挙げると、1945(昭和20)年3月以降、海軍第25特別根拠地隊がアンボン島で地元の女性たちを略取したことを、同隊附の主計将校だった坂部康正は、次のように回想している。
M参謀は……アンボンに東西南北四つのクラブ(慰安所)を設け約一〇〇名の慰安婦を現地調達する案を出された。その案とは、マレー語で、「日本軍将兵と姦を通じたるものは厳罰に処する」という布告を各町村に張り出させ、密告を奨励し、その情報に基づいて現住民警察官を使って日本将兵とよい仲になっているものを探し出し、きめられた建物に収容する。その中から美人で病気のないものを慰安婦としてそれぞれのクラブで働かせるという計画で、我々の様に現住民婦女子と恋仲になっている者には大恐慌で、この慰安婦狩りの間は夜歩きも出来なかった。
日本の兵隊さんとチンタ(恋人)になるのは彼等も喜ぶが、不特定多数の兵隊さんと強制収容された処で、いくら金や物がもらえるからと言って男をとらされるのは喜ぶ筈がない。クラブで泣き叫ぶインドネシヤの若い女性の声を私も何度か聞いて暗い気持になったものだ。(甲第43号証、海軍経理学校補修学生第十期文集刊行委員会編『滄溟』同会、1983〔昭和58〕年、312頁)
アンボン島で軍による略取があったことは明らかであろう。


 そのほかには、極東国際軍事裁判の証拠資料がある。その中から一例を挙げると、
インドネシアのモア島で指揮官だったある日本陸軍中尉は、ロエアン島とセルマタ島の住民が憲兵隊を襲ったとして住民を処刑し、その娘たち5名を強制的に「娼家」に入れたことを認めている。以下はその陳述書の一部である(甲第44号証、Doc. No.5591、吉見義明監修『東京裁判――性暴力関係資料』現代史料出版、2011〔平成23〕年、236-237頁)。

問 或ル証人ハ貴方ガ婦女達ヲ強姦シソノ婦人達ハ兵営ヘ連レテ行カレ日本人達ノ用ニ供セラレタト言ヒマシタガソレハ本当デスカ
       答 私ハ兵隊達ノ為ニ娼家ヲ一軒設ケ私自身モ之ヲ利用シマシタ
       問 婦女達ハソノ娼家ニ行クコトヲ快諾シマシタカ
       答 或者ハ快諾シ或ル者ハ快諾シマセンデシタ
       問 幾人女ガソコニ居リマシタカ
       答 六人デス
       問 ソノ女達ノ中幾人ガ娼家ニ入ル様強ヒラレマシタカ
       答 五人デス
問 ドウシテソレ等ノ婦女達ハ娼家ニ入ル様強ヒラレタノデスカ
       答 彼等ハ憲兵隊ヲ攻撃シタ者ノ娘達デアリマシタ
これも、軍による略取とみるほかないであろう。


 なお、連合国によるBC級戦犯裁判の追及から逃れたケースとしては、ジャワ島からバリ島へ女性たちを連行したケースがある。これは、裁判終結後の1963(昭和38)年8月8日に元海軍兵曹長が供述したものだが、それによれば、
「スラバヤから蘭軍下士官の細君五人の外、現地人七十人位をバリ島に連れて来た」、「この外にも、戦中の前後約四ヶ年間に二百人位の婦女を慰安婦として奥山部隊の命により、バリ島に連れ込んだ」ということである(甲第45号証、「蘭・バタビヤ法廷事件番号第二五号 三警事件資料」1962〔昭和37〕年8月8日、国立公文書館所蔵)。