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侵略思想の淵源・・・大日本帝国はどうして侵略国家になったか?


     ざっくり言うと

 ● 大日本帝国の人々は 侵略思想の源である国学復古神道に、多大なる影響を受けたため、その侵略思想が国中に蔓延したのである。

  今日のネトウヨたちが信奉する「日本民族自己中心+朝鮮・中国蔑視」思想は、古くからあった国学復古神道の一変形にすぎない。


侵略思想の淵源・・・大日本帝国はどうして侵略国家になったか?

 


敗戦直後、昭和天皇はその「人間宣言」の中で、「日本国民が他の民族よりも優秀だから、世界を支配する運命だというのは嘘だ。」(日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命 ヲ有ストノ架空ナル観念」)と宣べている。

第2次世界大戦前・中、日本国内には「日本民族こそもっとも優秀な民族で、世界を支配するのだ」という恐るべき傲慢な思想が満ちていたからである。こうした傲慢さからほかの民族を見下し、支配するための侵略行為が始まったのである。
では、このような想いはいったいどこから生まれたのであろうか?

本論文は、あの悲惨な戦争がどこから生まれたのかを解析したものである。いったい何者が、日本民族こそもっとも優秀な民族で、世界を支配するのだ」という観念を人々に吹き込んだのであろうか?

歴史をたどっていくとしよう。



          1、侵略思想の淵源

 本居宣長の教える「我が国が統御」


日本に侵略思想が生まれたのははるか昔、戦国時代にさかのぼる。「日本は日の元の国、神々がおわす国である」と誇り高く考えてキリシタンを弾圧した秀吉は、その膨張・肥大した自我の欲望により、海外侵略を始める。

一六世紀最大の戦争=アジアの支配者になるための=文禄・慶長の役壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱)である。


これは失敗に終わったが、直後からこの「侵略」を英雄行為のようにとらえる朝鮮征伐」という呼称が日本国内では広まっていく。堀正意朝鮮征伐記17C など http://www.jkcf.or.jp/history_arch/second/2-16j.pdf) それはまるで善が悪を退治するような征伐」なのである。この言葉は日本神話のなかの神功皇后による「三韓征伐」が下敷きとなっていたが、それが明確に唱えられたのは江戸時代中期から末期にかけてであった。

18世紀後半、山鹿素行の「中国より本朝はるかにまされり」という国粋主義的な主張に影響を受けた本居宣長「日本は天照大御神が生まれた[元来宗主国である]」と主張しhttp://www.ritsumei.ac.jp/~katsura/pdf/2.pdf 、さらに「中国朝鮮は、西方の野蛮であり、これを万国に照臨する天照大御神の生国である我が国が統御すべし」と述べている。(http://www.jkcf.or.jp/history_arch/second/2-16j.pdf

つまり、アジア諸国に対する日本の優位と「我が国が統御(支配)」を説いたのである。

これが後の大日本帝国の侵略思想の近代における源である・・・と言えるであろう。大日本帝国では、学校でこれらの思想を教え、多くの人々がこうした思想にかぶれたが故に「日本民族こそもっとも優秀な民族で、世界を支配するのだ」という恐るべき傲慢な思想に満ちたのである。明治23年の「教育勅語」は、「アマテラスや神武によって日本ができたという世界に比類なき我が国体の精果を自覚することが教育の基本だ」(教育の淵源、 亦実に此に存す)と日本中心主義を謳っている。

本居宣長の主張は神がかっており、秀吉が朝鮮征伐」失敗したのは「神功皇后に神助を得ようとしないから」であるともいう。http://www.jkcf.or.jp/history_arch/second/2-16j.pdf



ウンチクを聞け(1)
神功皇后といえば、いわゆる「三韓征伐」が有名だが、小室直樹が言うように、宣長以来この神功皇后の話は朝鮮半島侵略正当化の道具となったのである。


「この神功皇后の説は、その後の日本人の思想と行動に大きな痕跡を残した。日本人が、いきなり朝鮮半島を征服しようとするとき、正当性根拠として、いつも、神功皇后が持ち出されるのである。その理由は、神功皇后の征服いらい、三韓朝鮮半島)が、日本を版図であるからという一方的な理由によるものだ。それゆえ日本は朝鮮への出兵も征服も自由だとし、また日本が何か朝鮮に要求があれば、いつでも朝鮮は日本の要求に従わなければならない。と、こういう理屈をたてたのだ。」
『韓国の悲劇・韓国の崩壊・韓国の呪い』 

 

 かなり徹底的な神道妄想家であった本居宣長はこんな文章も残している。

   皇国のすぐれたるほどは、おのずからしるらむもの (玉勝間

   天照大御神は、その天をしろしめす御神にてしませば、宇宙の間に並ぶもの
   なく、とこしえに天地の限をあまねく照し照して、四方万国此御光徳をこうむ
   らずということなく、いづれのくにとても此の大御神の御蔭にもれては、一時片
   時も立つことあたわず。 (玉くしげ

こうした復古神道の妄想は、明治維新の志士達の中に脈々と流れることになる。そして昭和の「国体明徴」へと続いている。

ネトウヨが喜びそうな妄想だ。
それもそのはず。
現在のネトウヨたちの日本中心主義はもともと神社本庁の機関紙神社新報に書いてあったようなことだからだ。
平泉澄の歴史観南京虐殺否定論」なども昔から神社新報に掲載されていた。それが右派政治家、新聞や雑誌、インターネットを通してネトウヨに広まったのである。
彼らは二言目には「マスゴミ」などと述べるが、そのマスゴミ」の一部に無条件に洗脳されているのがネトウヨである。


ウンチクを聞け(2)
ネトウヨの反アカデミックの源

法制史家の瀧川政次郎は『日本歴史解禁』の一篇「国史歪曲の総本山平田篤胤」で徹底的な平田篤胤批判を行い、「彼は生前から「山師」といわれた如く、人格下劣な大山師であった。この大山師のインチキな思想によって、維新の功臣達が指導せられたことは、正に日本国民の大なる禍い〈ワザワイ〉であった。明治政府が百年の齢〈ヨワイ〉を保ち得ずして崩壊した根本的原因は、茲〈ココ〉にあるものと私は考えている。」と書いている。
すこし長いが、いまのネトウヨたちと共通する反アカデミックな性質があることも述べているので引用しておこう。
「・・・・軍人の反アカデミックな気持は、大学を追われた平田学の残党の反アカデミックな気持と共感を呼ばない筈はない。故に軍人は、その思想的空虚も手伝って、平田学に共鳴し、傾倒していった。軍の思想家といわれる小磯国昭荒木貞夫東条英機等が、平田学者である今泉定介〈イマイズミ・サダスケ〉、山田孝雄〈ヤマダ・ヨシオ〉と仲が良かったことは決して偶然ではない。この軍人と平田学者との反アカデミックな陣営に加わったのは、帝大に入り損じて帝大を呪う蓑田胸喜〈ミノダ・ムネキ〉、三井甲之〈ミツイ・コウシ〉等の浪人連中であった。『南淵書』〈ミナミブチショ〉という偽書を作って青年将校を五・一五に導いた権藤成郷〈ゴンドウ・セイキョウ〉も「こういう書物のあることは、帝大の先生方も御存じない」といって、軍人を随喜渇仰せしめていた。日本を滅茶滅茶にしてしまったのは、これらの反アカデミックな不平党であって、軍人達の小さな不平が国を滅ぼしたという幣原喜重郎〈シデハラ・キジュウロウ〉の見解は正しい。明治維新の原動力となったのものも、陪臣〈バイシン〉の直参〈ジキサン〉に対する不平不満である。」

*「軍人の思想的空虚」というのは少し違っている。軍人の多くは軍人勅諭という天皇中心の復古神道精神の産物を根幹においていいたので復古神道とは最初から相性がよかったのである。




本居宣長の考えは、「山師」平田篤胤に引き継がれ、朝鮮蔑視を含む宗教的イデオロギーとしてその門弟に引き継がれた。日本の古代宗教を信奉して、儒仏の排斥を唱えた国学者復古神道家にとって儒教や仏教を伝え、その直接の教師となった朝鮮に敵意が振り向けられていくのは当然の流れであろう。これが今日まで続く朝鮮蔑視・朝鮮憎悪の源であり、神功皇后三韓征伐を歴史的事実としていた彼らにとって朝鮮支配の恢復は、「皇威」の回復にとって不可欠の大事であった。
篤胤と付き合いの深い佐藤信淵『宇内混同大論』文政6(1823)年)において世界征服の野望をこう述べている。

   「まず南洋を攻略し、これを推しひろめて、全世界をことごとく日本の有とすべし」

さらに具体的な案まで出して

   「出雲松江や長州荻から朝鮮半島東海岸を経路し、博多からは朝鮮半島南岸を攻略すべき」

という。


ウンチクを聞け(3)
林房雄は、大東亜戦争肯定論』の中で「(世界征服を述べる)同じ意見は同時代の政治家、志士の書簡・著作に見出すことができ、数の多さに驚く」と書いている。
日本中心主義で野心に満ちた国学を学んでいたほとんどの志士たちにとって、「アジアを奪る」ことは夢であり遠い将来の目的だったのである。
大日本帝国揺りかごの中でまどろんでいる時期に、こうした日本中心主義とアジア侵略指導者たちの手によって方向つけられたことが、その後の大日本帝国の運命を決定したのである。

 

こうして国学復古神道)に「世界征服の野望」が芽生え、高まっていくことになる。そして国学復古神道)と水戸学は、幕末の武士たちの素養であり、のちに明治維新政府に入った長州藩薩摩藩士のほとんどがこれを信奉していたのである。彼らがアジア侵略を企てるのは、当然の帰結と言える。佐藤信淵は南進論を展開し、橋本は北進論を展開しながら、後の日本軍の戦略対立の機縁となった考えが江戸時代にすでに現れていることも知っておかねばならないだろう。

幕末には、島崎藤村夜明け前に描いたように、平田派復古神道が一部の農村にまで広まった。http://www.kmatsum.info/Sinsyu/Toyooka/Yoakemae.html
平田篤胤の門下からは、平田銕胤矢野玄道、大国隆正、玉松操、福羽美静、青山景通荻原嚴雄、三輪田元綱ど多数が明治政府に参加している。



こうして見ればわかるように維新の志士たちには日本中心主義と世界侵略思想が蔓延していたのである。
 


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「皇大御國(日本)ハ大地ノ最初ニ成レル國ニシテ世界萬國ノ根本也故モ能ク其根本ヲ經緯スルトキハ即全世界悉ク郡縣ト為スヘク萬國ノ君長皆臣僕ト為スヘシ」で始まる自民族至上主義と、国内の統治及び世界征服の方法を書いている。
佐藤信淵は、海外征服について「凡ソ他邦ヲ經略スルノ法ハ弱クシテ取リ易キ処ヨリ始ルヲ道トス今ニ當テ世界萬國ノ中ニ於テ皇國ヨリシテ攻取リ易キ土地ハ支那國ノ滿州ヨリ取リ易キハナシ」と書き、中国征服を世界征服の第一歩として捉えた。軍事的及び経済的に満州以北を征圧した後に、中国本土台湾と寧波から侵攻し、そして南京に仮の皇居を定め、の皇帝の子孫を上公に封じて従来の祖先崇拝を認めた上で、神社や学校を建てて教育せよと述べている。中国を征服した後は、周辺の国も容易に征服出来ると考え、最後にヨーロッパへ侵攻せよという。<リンク>
軍や右翼の中には、この佐藤信淵の影響を受けた者が多く占領地に神社を作ったことを含め実際の歴史のかなりの部分がこの本の指示の通りに進んでおり、先の日本の侵略戦争の第一の原因者はコイツだろう。

 
 幕末志士の
橋本左内はこう述べている。 

    橋本左内『啓発録』

    いずれにせよ、アメリカを東方の一藩と見、西洋諸国を我が国に所属する地域とみなすくらいの気概を持ち、ロシヤ帝国を我が兄弟、唇と歯のように密接な関係を有する友好国として、近隣地域に勢力を拡張することが、今の日本にとって、最も緊急重要な 問題と考えております。

    橋本左内  
会編 『東亜先覚志士記伝』
   「日露同盟によって満韓を経略し,版 
図を海外に拡張する必要」

会は、もちろん見習うべき「
先覚者」として紹介しているのであってこれに鼓舞された
者もいただろう。
黒龍会に言わせると無邪気な冒険的世界観は講談本が培ったものだというから、日本全国にいた講釈師が面白おかしく語ったことも、帝国臣民に強い影響を与えたに違いない。


幕末において維新の志士たちが信報していたにすぎない朝鮮蔑視と朝鮮征服思想は、明治維新後になると様々なタイプの宣伝活動がなされ、より一般化されるようになる。

朝鮮半島侵略計画


列強の手がつけられていない朝鮮半島は、早くから侵略目標となっており、吉田松陰は獄中で「朝鮮を責めて、質を納れ、貢を奉ずること古の盛時のごとくならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(フィリピン)諸島を収め、進取の勢を示すべき」「国力を養ひて取り易き朝鮮、支那満州を斬り従えん」と書き送り吉田松陰全集第一巻「幽囚録」、これを受け松陰の弟子である桂小五郎木戸孝允)も「征韓論」を唱えていた中尾 宏『幕末征韓論の系譜


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吉田松陰全集』第一巻
p350-p351「幽囚録」

朝鮮を責めて、質を納れ、貢を奉ずること古の盛時のごとくならしめ・・・・」の部分
















(<近代デジタル・ライブラリー>http:/kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048646




すでに実行前夜というべき74年になると奇兵隊であり、日本軍閥の祖」と言われた軍の支配者・山縣 有朋朝鮮半島「利益線」と述べている(陸軍省沿革史』「外征三策」)。「防衛のための生命線」などとは述べていないコトに注目すべきである。あくまで「利益線」なのだ。
その後桐野利秋陸軍少将は1975年には積極的「略取論」を展開している。『鹿児島県史料ー「西南戦争」第3巻)
桐野は、「支那朝鮮、満州略取し、以て欧亜各国に侵入するの基を立つべし」と世界征服の野望を述べている(秦郁彦陰謀史観p15)。略取とは「ぶん取る」ということであり、その後西欧とアジア各国に侵入するための基にする、というのだ。
これが陸軍の指導者によって語られていた意味は大きい。


ウンチクを聞け(4)
1895年の閔妃殺害の犯人である三浦梧楼(長州出身)たちの犯行をもみ消したこともこれに関係している。ここで見たように当時、「朝鮮を支配すること」は彼ら(明治の支配者たち)の間では暗黙に了解されていた目的だったので、閔妃を殺害したのち早々と引き上げさせ形ばかりの裁判を行い釈放している。三浦梧楼はやがて政界のフィクサーとして活動するようになる。日本の闇の一つである。

 

中国侵略計画


中国に対する侵略もいよいよ具体的になり、1880年代になると桂太郎中佐と小川又次大佐(参謀本部二局長)はそれぞれ、何個師団を半島や北京におくるべきか具体論を展開している。山本四朗の論文によればこの小川又次大佐の清国征伐策案の中にすでに「清朝満州に移す」ことが述べられているというから(山本四朗『日本史研究』75号)、この時代に約50年後に実現する満州国構想の基が練られたといえるだろう。


ウンチクを聞け(5)
藩閥専制時代の山縣有朋伊藤博文と共に松下村塾出身。桂 太郎も長州閥。陸軍は長州閥の影響が色濃く、昭和のはじめまで長州閥がハバを利かせていた。
田中 隆吉の書いた日本軍閥暗闘史の中で、解説をしている谷田勇は、明治41年に陸軍学校に入学した当時、「陸軍は長州閥専横の時代であった」と書いている。やがて昭和の初めには「一夕会」という陸軍内部の組織が暗躍するようになるが、その目的の第一は「長州閥の打破」であったという。明治維新薩長土肥の雄藩が主軸となったので明治政府はこの藩閥に大方占められたが、その中で主軸となった薩長の内、軍に絶大な人望があった西郷が西南戦争でやぶれると陸軍は長州閥の支配するところとなったのである。一方海軍は薩摩の影響が濃かった。

 

日清戦争前の作戦案の通り、満州事変を引き起こした関東軍満州国を作った。さらに関東軍侵略戦争を拡大し、中国全土に侵攻した。いろんな人がこれを止めようとし、ドイツまで仲介しようとした日中戦争がどうしてもやめられなかったのは、古の偉人(と彼らが信じる人々)が、それを命じていたからである。


つづく