ざっくり言うと
侵略思想の淵源・・・大日本帝国はどうして侵略国家になったか?
敗戦直後、昭和天皇はその「人間宣言」の中で、「日本国民が他の民族よりも優秀だから、世界を支配する運命だというのは嘘だ。」(日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命 ヲ有ストノ架空ナル観念」)と宣べている。
第2次世界大戦前・中、日本国内には「日本民族こそもっとも優秀な民族で、世界を支配するのだ」という恐るべき傲慢な思想が満ちていたからである。こうした傲慢さからほかの民族を見下し、支配するための侵略行為が始まったのである。
では、このような想いはいったいどこから生まれたのであろうか?
本論文は、あの悲惨な戦争がどこから生まれたのかを解析したものである。いったい何者が、「日本民族こそもっとも優秀な民族で、世界を支配するのだ」という観念を人々に吹き込んだのであろうか?
歴史をたどっていくとしよう。
1、侵略思想の淵源
本居宣長の教える「我が国が統御」
日本に侵略思想が生まれたのははるか昔、戦国時代にさかのぼる。「日本は日の元の国、神々がおわす国である」と誇り高く考えてキリシタンを弾圧した秀吉は、その膨張・肥大した自我の欲望により、海外侵略を始める。
これは失敗に終わったが、直後からこの「侵略」を英雄行為のようにとらえる「朝鮮征伐」という呼称が日本国内では広まっていく。(堀正意『朝鮮征伐記』17C など http://www.jkcf.or.jp/history_arch/second/2-16j.pdf) それはまるで善が悪を退治するような「征伐」なのである。この言葉は日本神話のなかの神功皇后による「三韓征伐」が下敷きとなっていたが、それが明確に唱えられたのは江戸時代中期から末期にかけてであった。
18世紀後半、山鹿素行の「中国より本朝はるかにまされり」という国粋主義的な主張に影響を受けた本居宣長は「日本は天照大御神が生まれた[元来宗主国である]」と主張しhttp://www.ritsumei.ac.jp/~katsura/pdf/2.pdf 、さらに「中国朝鮮は、西方の野蛮であり、これを万国に照臨する天照大御神の生国である我が国が統御すべし」と述べている。(http://www.jkcf.or.jp/history_arch/second/2-16j.pdf)
つまり、アジア諸国に対する日本の優位と「我が国が統御(支配)」を説いたのである。
これが後の大日本帝国の侵略思想の近代における源である・・・と言えるであろう。大日本帝国では、学校でこれらの思想を教え、多くの人々がこうした思想にかぶれたが故に「日本民族こそもっとも優秀な民族で、世界を支配するのだ」という恐るべき傲慢な思想に満ちたのである。明治23年の「教育勅語」は、「アマテラスや神武によって日本ができたという世界に比類なき我が国体の精果を自覚することが教育の基本だ」(教育の淵源、 亦実に此に存す)と日本中心主義を謳っている。
本居宣長の主張は神がかっており、秀吉が「朝鮮征伐」を失敗したのは「神功皇后に神助を得ようとしないから」であるともいう。http://www.jkcf.or.jp/history_arch/second/2-16j.pdf
ウンチクを聞け(1)
『韓国の悲劇・韓国の崩壊・韓国の呪い』
天照大御神は、その天をしろしめす御神にてしませば、宇宙の間に並ぶもの
なく、とこしえに天地の限をあまねく照し照して、四方万国此御光徳をこうむ
らずということなく、いづれのくにとても此の大御神の御蔭にもれては、一時片
時も立つことあたわず。 (『玉くしげ』)
ネトウヨが喜びそうな妄想だ。
それもそのはず。
ウンチクを聞け(2)ネトウヨの反アカデミックの源
法制史家の瀧川政次郎は『日本歴史解禁』の一篇「国史歪曲の総本山平田篤胤」で徹底的な平田篤胤批判を行い、「彼は生前から「山師」といわれた如く、人格下劣な大山師であった。この大山師のインチキな思想によって、維新の功臣達が指導せられたことは、正に日本国民の大なる禍い〈ワザワイ〉であった。明治政府が百年の齢〈ヨワイ〉を保ち得ずして崩壊した根本的原因は、茲〈ココ〉にあるものと私は考えている。」と書いている。「・・・・軍人の反アカデミックな気持は、大学を追われた平田学の残党の反アカデミックな気持と共感を呼ばない筈はない。故に軍人は、その思想的空虚も手伝って、平田学に共鳴し、傾倒していった。軍の思想家といわれる小磯国昭、荒木貞夫、東条英機等が、平田学者である今泉定介〈イマイズミ・サダスケ〉、山田孝雄〈ヤマダ・ヨシオ〉と仲が良かったことは決して偶然ではない。この軍人と平田学者との反アカデミックな陣営に加わったのは、帝大に入り損じて帝大を呪う蓑田胸喜〈ミノダ・ムネキ〉、三井甲之〈ミツイ・コウシ〉等の浪人連中であった。『南淵書』〈ミナミブチショ〉という偽書を作って青年将校を五・一五に導いた権藤成郷〈ゴンドウ・セイキョウ〉も「こういう書物のあることは、帝大の先生方も御存じない」といって、軍人を随喜渇仰せしめていた。日本を滅茶滅茶にしてしまったのは、これらの反アカデミックな不平党であって、軍人達の小さな不平が国を滅ぼしたという幣原喜重郎〈シデハラ・キジュウロウ〉の見解は正しい。明治維新の原動力となったのものも、陪臣〈バイシン〉の直参〈ジキサン〉に対する不平不満である。」
本居宣長の考えは、「山師」平田篤胤に引き継がれ、朝鮮蔑視を含む宗教的イデオロギーとしてその門弟に引き継がれた。日本の古代宗教を信奉して、儒仏の排斥を唱えた国学者・復古神道家にとって儒教や仏教を伝え、その直接の教師となった朝鮮に敵意が振り向けられていくのは当然の流れであろう。これが今日まで続く朝鮮蔑視・朝鮮憎悪の源であり、神功皇后の三韓征伐を歴史的事実としていた彼らにとって朝鮮支配の恢復は、「皇威」の回復にとって不可欠の大事であった。
「まず南洋を攻略し、これを推しひろめて、全世界をことごとく日本の有とすべし」
さらに具体的な案まで出して
という。
こうして国学(復古神道)に「世界征服の野望」が芽生え、高まっていくことになる。そして国学(復古神道)と水戸学は、幕末の武士たちの素養であり、のちに明治維新政府に入った長州藩、薩摩藩士のほとんどがこれを信奉していたのである。彼らがアジア侵略を企てるのは、当然の帰結と言える。佐藤信淵は南進論を展開し、橋本は北進論を展開しながら、後の日本軍の戦略対立の機縁となった考えが江戸時代にすでに現れていることも知っておかねばならないだろう。
こうして見ればわかるように維新の志士たちには日本中心主義と世界侵略思想が蔓延していたのである。
・「皇大御國(日本)ハ大地ノ最初ニ成レル國ニシテ世界萬國ノ根本也故モ能ク其根本ヲ經緯スルトキハ即全世界悉ク郡縣ト為スヘク萬國ノ君長皆臣僕ト為スヘシ」で始まる自民族至上主義と、国内の統治及び世界征服の方法を書いている。
幕末志士の
橋本左内はこう述べている。
橋本左内『啓発録』
いずれにせよ、アメリカを東方の一藩と見、西洋諸国を我が国に所属する地域とみなすくらいの気概を持ち、ロシヤ帝国を我が兄弟、唇と歯のように密接な関係を有する友好国として、近隣地域に勢力を拡張することが、今の日本にとって、最も緊急重要な 問題と考えております。
「日露同盟によって満韓を経略し,版
図を海外に拡張する必要」
朝鮮半島侵略計画
列強の手がつけられていない朝鮮半島は、早くから侵略目標となっており、吉田松陰は獄中で「朝鮮を責めて、質を納れ、貢を奉ずること古の盛時のごとくならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(フィリピン)諸島を収め、進取の勢を示すべき」「国力を養ひて取り易き朝鮮、支那、満州を斬り従えん」と書き送り(『吉田松陰全集』第一巻「幽囚録」)、これを受け松陰の弟子である桂小五郎(木戸孝允)も「征韓論」を唱えていた(中尾 宏『幕末征韓論の系譜』)。
『吉田松陰全集』第一巻
p350-p351「幽囚録」
「朝鮮を責めて、質を納れ、貢を奉ずること古の盛時のごとくならしめ・・・・」の部分
すでに実行前夜というべき74年になると元奇兵隊であり、「日本軍閥の祖」と言われた軍の支配者・山縣 有朋は、朝鮮半島を「利益線」と述べている(『陸軍省沿革史』「外征三策」)。「防衛のための生命線」などとは述べていないコトに注目すべきである。あくまで「利益線」なのだ。
桐野は、「支那、朝鮮、満州を略取し、以て欧亜各国に侵入するの基を立つべし」と世界征服の野望を述べている(秦郁彦『陰謀史観』p15)。略取とは「ぶん取る」ということであり、その後西欧とアジア各国に侵入するための基にする、というのだ。
これが陸軍の指導者によって語られていた意味は大きい。
ウンチクを聞け(4)1895年の閔妃殺害の犯人である三浦梧楼(長州出身)たちの犯行をもみ消したこともこれに関係している。ここで見たように当時、「朝鮮を支配すること」は彼ら(明治の支配者たち)の間では暗黙に了解されていた目的だったので、閔妃を殺害したのち早々と引き上げさせ形ばかりの裁判を行い釈放している。三浦梧楼はやがて政界のフィクサーとして活動するようになる。日本の闇の一つである。
中国侵略計画
中国に対する侵略もいよいよ具体的になり、1880年代になると桂太郎中佐と小川又次大佐(参謀本部二局長)はそれぞれ、何個師団を半島や北京におくるべきか具体論を展開している。山本四朗の論文によればこの小川又次大佐の『清国征伐策案』の中にすでに「清朝を満州に移す」ことが述べられているというから(山本四朗『日本史研究』75号)、この時代に約50年後に実現する満州国構想の基が練られたといえるだろう。
ウンチクを聞け(5)田中 隆吉の書いた『日本軍閥暗闘史』の中で、解説をしている谷田勇は、明治41年に陸軍学校に入学した当時、「陸軍は長州閥専横の時代であった」と書いている。やがて昭和の初めには「一夕会」という陸軍内部の組織が暗躍するようになるが、その目的の第一は「長州閥の打破」であったという。明治維新は薩長土肥の雄藩が主軸となったので明治政府はこの藩閥に大方占められたが、その中で主軸となった薩長の内、軍に絶大な人望があった西郷が西南戦争でやぶれると陸軍は長州閥の支配するところとなったのである。一方海軍は薩摩の影響が濃かった。
日清戦争前の作戦案の通り、満州事変を引き起こした関東軍は満州国を作った。さらに関東軍は侵略戦争を拡大し、中国全土に侵攻した。いろんな人がこれを止めようとし、ドイツまで仲介しようとした日中戦争がどうしてもやめられなかったのは、古の偉人(と彼らが信じる人々)が、それを命じていたからである。
つづく