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侵略思想の淵源(3)世界恐慌の前から計画されていた満州領有ー蠢く悪霊たちの計画犯罪


からの続き

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一般的な教科書的理解では、「満州事変は、世界恐慌が起こったので、その困難を打開するために、石原莞爾関東軍によって計画・実行された」と考えられている。

だが、最近の歴史学の最先端は、異なる見解を打ち出している。

石原莞爾東條英機らが属していた「木曜会」「一夕会」の会合の記録が発掘された結果、なんと満州侵略は、世界恐慌の1年以上も前から、その方針が打ち出されされていたというのだ。

木曜会は、1927年、参謀本部作戦課の鈴木貞一らが中心となり、鈴木・深山をはじめとする日本陸軍中央の少壮幕僚グループによって結成された。石原莞爾、村上啓作、根本博、土橋勇逸、深山亀三郎、永田鉄山やその腹心だった東条英機、後の陸軍三羽烏岡村寧次などが参加しており、これに武藤章、田中新一などが加わり、さらに二葉会が合流して一夕会が生まれた。一夕会には荒木貞夫等も参加しており、荒木が陸軍大臣に就任したのはこの一夕会の永田鉄山らの推挙があったからだ。

このメンバーから分かるように、後に陸軍の中枢にいた者達の集団であり、戦犯として裁かれた者も多い。

だが、東京裁判がどうであろうと、この連中が日本をあの戦争へと引きずって行った犯罪者集団である事を忘れてはならないのである。

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東京大学加藤陽子『戦争の日本近現代史で、木曜会第3回会合(1928年昭和3年1月19日)の話を書いている。

当時、陸軍大学校の教官であり、後に満州事変の首謀者である石原莞爾が≪我が国防方針≫という題で話し、

「日米が両横綱となり、末輩之に従ひ、航空機を以て勝敗を一挙に決するときが世界最後の戦争」

「(日本から)一厘も金を出させないという方針の下に戦争しなければならない」

「全支那を根拠として遺憾なく之を利用せば、20年でも30年でも戦争を続けられる」

という構想を語っている。

いわいる「最終戦争構想」の元となる話だが、日本から金を出させないで戦争するという事は、この時点で悪の天才、石原莞爾の頭の中には、現地で略奪しながら(彼らは「供出」と呼んだ)戦争を拡大し続けた、あの戦争が描かれていたのである。

んだけバカなんだ?
後で対米戦争を「時期早々」として反対した石原莞爾だが、それは「時期が早い」というだけで結局はこのバカの言った通りに時代は破壊されて行くのである。

この方面で画期的な研究をしている川田稔は、2010年の著作満州事変と政党政治でこうした石原の話しの2ヶ月後に東條英機が、1928年3月1日の第5回会合で述べた事を書いている。

当時陸軍省軍事課員であった東条英機はこう述べた。

     国軍の戦争準備は対露戦争を主体として、満蒙に完全な
    政治的勢力を確立することに置く主旨の元で行うを要す。た
    だし本戦争経過中、米国の参加を顧慮し守備的準備を必要
    とす。この間、対支戦争準備は大なる顧慮を要せず。単に資
    源獲得を目的とす。

おい、おいと思った人は(怒りを込めて)「イイネ」をクリック、クリック
うちの親戚の爺さんが太平洋で死んだのは、こいつらの責任である。

要するに満蒙領有の戦争をすることを方針として述べており、それは資源の獲得が目的であり、米国はちょっと注意しとけよ、でも中国なんざ軽いわ・・・・という事だ。これが、一陸軍省軍事課員の主張でなかった事は、この日、木曜会が「満蒙に完全な政治的勢力を確立する」という決定をした事からも分かる。

これが、世界恐慌の1年以上も前の出来事なのである。
そこで川田も、満州事変が世界恐慌の困難から引き起こされたという説を否定している(満州事変と政党政治p8、p9)

日本国内には、18世紀の終わりからすでに、「我が日本民族こそ天孫民族である。アジアを支配すべし」という思想が生まれており、やがてそれは吉田松陰木戸孝允を経て、明治政府の征韓論として蔓延し、やがて昭和時代になると具体的な侵略方法が軍人たちに練られ始めたのである。アジアの盟主になるために。

「日本は侵略国ではない」などというバカな主張が通るような世界はどこにも無い。世界どころか日本の中でさえ・・・先日あの安倍首相さえ、太平洋戦争に至るまでに、日本による「侵略と評価される行為」があったと認めたように、「侵略しなかった」などというのはネトウヨが思い描く絵空事に過ぎない。
いい加減に眼を醒ませ!


(すでにあの安倍も認めた「侵略」)