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吉見裁判の判決について 『現代日本の病巣ー法曹界のネトウヨ化を憂う』




確かにムチャクチャな判決だったのだが、この記者は今一よく理解できていないので、解説しておこうと思う。
日本の法廷の奇妙な慰安婦判決 吉見義明教授敗訴
http://japan.hani.co.kr/arti/international/23111.html …
題して『現代日本の病巣ー法曹界ネトウヨ化を憂う』

この判決の全文はここで

まずこの判決は、桜内文城発言の問題を出来る限り、矮小する努力をしており、結論ありきの様子が見てとれる。p11では「捏造」という言葉の意味を変化させている。つまり桜内が述べている「捏造は捏造という意味じゃないよ」というのだ。
  オイオイ
  言葉の定義を変えるのはネトウヨのオハコじゃないか。
それは裁判中に桜内サイドが主張したことなのだが(p12)そのまま受け入れている。もしそうであるなら、裁判所は「捏造」という言葉が「本来の意味で使われたか?」それとも「本来の意味では使われていないか?」を区別する判断基準を示さなければならない。
  結局、おれはそう思うよと言っているだけの主観的判断と言える。
  これもまたネトウヨのオハコ
普通に考えて、ある著作の内容を「捏造である」と国際的な記者会見の場で述べれば、世界中に宣言したのも同じであり、それは著しく著者の名誉を棄損していると言えるだろう。判決もそれを認めており「原告の社会的評価を低下させる」と一応は述べている(p12)。
ところが、ここに仕掛けがある。
判決はこれを「事実の摘示」ではなく「論評」だというのだ.論評だから免責されるという理屈である(P13)。しかし最高裁判例では、「問題とされる表現が、証拠等をもって」他人に示すことができるようなものは、「事実の摘示である」という(p11)。桜内発言では「捏造」が「いろんな証拠によって明らかだ」という(p10)。
「いろんな証拠によって明らか」なものは、「論評」ではなく「事実の摘示」だと1997年9月9日の最高裁判決は述べている(p11)。という事は「捏造であることがいろんな証拠から明らかだ」という桜内発言は、まさにドン・ピシャリの「事実の摘示」と解せるではないか?!
それなのに、なぜか「論評」だという。しかもそれだけではないのだ。
「論評」であっても、「前提とした事実の重要な部分について真実」でなければならない。要するに「事実の摘示」ほど厳しくはないが、発言を裏付ける「真実相当性」は必要なのである(1997年9月9日最高裁判決)。ところがこんかいの判決のp13では、吉見氏の著作『従軍慰安婦』に「慰安婦制度は性奴隷制度・・・」という記述があるから、それで「真実であることの証明があった」としているのだ。
  なんだというのだろうか?
桜内発言の「捏造だ」に信じるだけの相当な理由があるとすれば、その根拠を示すべきところを、まったくそんな根拠の無いまま、かつての最高裁判決まで、捻じ曲げてしまい今回の判決に至ったのである。
今、日本で起こっている事は、恐ろしいほどの詭弁国家化である。世の中の人が、無関心な中で静かにそれは進行している。いや、これまで潜在化していた矛盾が顕れただけかも知れないが、嘘つきが嘘を恥じない世の中になり、捏造も脅迫も暴言も「愛国である」と言えば許されるような錯覚が善悪を混沌とさせている。
最高裁判所裁判官・瀬木比呂志によれば、2001年頃から与党である自民・公明党の圧力により、最高裁を中心に裁判所が名誉毀損の主張を簡単に認めるように基準を変え、賠償額も高額化させたという。http://biz-journal.jp/2015/01/post_8747.html 
その同じ名誉棄損裁判で、今度は基準を難しくし、恣意的なものに変化させたのだ。
そこに誰かの圧力があったのか?
どんな思惑があったのか?
まったく分かっていない。だが日本最大の右翼団体である「日本会議」は元最高裁判所長官を務めた石田和外の呼びかけから始まり、第3代会長は元最高裁判所長官三好達だった。そこに何らかのつながりがあってもおかしくはない。
現在日本の病巣であろう。
(全敬称略)