河野談話を守る会のブログ2

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無垢な娘が慰安婦にされた・・・・

慰安婦の研究者の間では有名な『漢口慰安所という著作物があるのだが、著者は元軍医大尉の長沢健一氏で1983年に書いたものである。漢口慰安所は軍が管理した200名あまりの軍慰安婦と民営の売春宿に合わせて*3000名の慰安婦達がいた。

彼は「初店」の章で、漢口の慰安所「戦捷館」に連れてこられた女性が慰安婦にされることに対して激しく抵抗する場面に出くわしている場面を描いている。
彼女は性病検査を受けたくないと抵抗し、次ぎのように叫んだという。


    
 私は慰安所というところで兵隊さんを慰めてあげるのだと聞いて
 きたのにこんなところでこんなことをさせられるとは知らなかった。
 帰りたい。帰らせてくれ・・・・


つまり、慰安所がどんなところか知らなかったのだ。
慰安所」と聞いてもそれが性を売るところだとは想像もできなかったのである。

さらに、同じ漢口の慰安所にいた山田清吉大尉は『武漢兵站』(1978年)で、このように書いている。
日本内地から来た者は・・・・売春経験のある20才過ぎの女性が多かったが、朝鮮から来た者は(売春の)経験もなく、年齢も18,9の若い娘が多かった・・・
 
若く無垢な娘が多かったと言うのである。

麻生徹男 『証言━戦線女人考』 (1957年 この著作物の最新版は『上海より上海へ』(1993年)でこう書いている。
この慰安所も軍の直営であった。
1938年1月2日、軍慰安婦となるべき女性約100人の検診を行った。軍命令として「近く開設せらるる陸軍娯楽所のため目下、其美路沙挫小学校に待機中の婦女子百余名の身体検査を行うべし」というのもであった。

またこの手記には
これに呼応して民間側にても、江湾鎮の一角に数件の慰安所が開設されるようになった
と書かれており、この慰安所が軍の経営であった事を証明しているのである。

さらに

朝鮮及びに北九州の各地より募集せられた連中であった。興味ある事には、朝鮮の婦人の方は年齢の若く、肉体的にも無垢を思わせる者がたくさんいたが、北九州関係の分には既往にその道の商売をしていたものが大部分  

その数は朝鮮人80人、日本人20人

こうして、軍が直接経営した慰安所があった事、及びに慰安婦には朝鮮女性が多かった事、そして朝鮮から連れて来られた女性達には無垢な女性が多くいた事などが伺える。
李氏朝鮮時代に熱心に儒教朱子学)を信奉した朝鮮半島には儒教の性倫理が永く伝統として培われていた。そのため婚前交渉はごく少なく多くの娘達が性に対してまったく無知であった。こうした娘達を手篭めにするように慰安婦にしたのである。そこで上述のように、「帰らせてくれ」と叫ぶ女性や宋神道さんが証言したように自殺した娘達もまたいたのである。
このような悲劇を引き起こしたことに私達は深い悲しみを感じる。それは我々の父母あるいは祖父母の時代に事実としてなされた事だからである。それをどのような言葉で糊塗してみても何の意味があるだろう?「狭義の強制だ」「広義の強制だ」「民間人がやったのだ。」「責任は無いんだ」「ただの売春婦だ」などなど・・・どのように言い繕ったとしても引き起こされた罪深い事実の前に何の言い逃れにもなりはしないのだ。
私達はただ頭を垂れ、許しを乞うばかりである。
しかし現在日本では、この”言い逃れ”したい人々が”言い逃れ”の上手い人を立て、政権を獲ろうとしている。彼らは自分達の”言い逃れ”を認めない者に罵倒を浴びせ、さらに銃を突きつけてしまいそうな勢いである。元慰安婦達がまさに慰安婦にされたその時代を彷彿させるような狂った流れが再び生まれつつある。

 


*漢口慰安婦3000人・・・・・『資料集』P243「職業別統計」「漢口在住ノ娼婦ハ現在ノ登記人数二百数十名ニ過ギサルモ、実数ハ優ニ三千名以上ニ達シアルモノト思料」