河野談話を守る会のブログ2

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慰安婦について述べた古い記録

「政府の指示で狩り出す役目を帯びた人間はいかなる手段を使っても、とにかく狩り集めて、割り当てられた頭数さえそろえれば、自分の役目はすんだし、送る人間は船にさえ積み込めば、自己の使命はすんだし、正規の軍人所属ではないこれらの朝鮮人は純然たる消耗品としてしか、考えていないだろうから、氏名や人数に対する記録なども、最初から作られなかったかもしれない。その上一層あわれなのは、婦女子の場合である。設営隊や、労働力補充のために青壮年の狩り出しをするのと同時に、未婚の女子や、子のない人妻も狩り出された。その中の何千人かは、勤労奉仕の名目で日本に送った。
ところがこの勤労奉仕が大変な奉仕で、軍は彼女らを慰安婦として、南方に送るため輸送船に積み込んだ。何も知らない彼女達は、はじめは、日本のどこかの軍需工場にでもまわされるのだろうと考えていたが、船が太平洋上に出ると、軍部の連中は、彼女達に肉体を要求した。彼女達が拒否すると、彼らは目的地についてから捨てるのも今捨てるのも一緒ではないか、と言ってそれの提供をせまった。そこで初めて彼女達はだまされた事を知った。彼女達は貞操を失うよりは、死を選んだ。一隻の船から何十何百人もの女性達が、相次いで怒涛逆巻く太平洋の荒波に身を躍らせた。これに懲りた軍部は、その後は、一層厳しく監視をつけ、手足を縛って、これらの島々に送り込み、遂に白骨と化せしめたのである。」
 
(『朝鮮評論』第七号・1953年4月「忘れ去られた歴史は呼びかける」高成浩著)
 
 
 
すでに1957年に出版された麻生哲夫 の 『証言━戦線女人考』  この著作物の最新版は『上海より上海へ』1993年)については、前日の記事で掲載した。
上に書いたのはそれよりも少し古い1953年の著作物である。作者は自己が見聞きした戦時中の出来事について述べている。本資料が掲載されていたのは、金一勉著『天皇朝鮮人総督府』P208~209である。金一勉氏は1921年生まれ。自ら特高の拷問を受けた経験もある戦中派である。同氏によると朝鮮の娘達が「女子挺身愛国隊」として本格的に徴集され始めるのは、1942年からで、それには総督府警察の指示の下、「愛国婦人会」「国防婦人会」「愛国班」と言った組織が関与したと言う。めぼしをつけた娘のいる家に三日前には巡査が通知を届けに「愛国班」などの末端の家に行く。指示を受けた彼らは血眼になって駆け回り、逃亡する気配のある女は拘束したと言う。こうして娘狩りがなされたので良家の女子は山奥に隠れたり、またにわかに結婚する者が増えたと言う。
これに関連して 挺対協の創設者の一人である伊貞玉梨花女子大教授は、
1944年12月、梨花女子専門学校一学年の時、日帝朝鮮半島の各地で未婚の若い女性を手あたりしだい挺身隊に狩り出した。そのため多くの学生が結婚するという名目で退学し始めた。あわてた学校当局は「学校が責任をもってあなたたちを守る」と言ったが、しばらく後、私たちは国家総動員令に応じるという書類にサインしなければならなかった。私は両親の言葉に従い、退学して挺身隊を免れたが、同世代の多くの乙女たちが日帝によって狩り出されていった
と述べている。
国家総動員令に応じるという書類にサイン」とは挺身隊に狩り出す準備に違いない。
しかしもちろんこの女性達が必ずしも性奴隷としての慰安婦にされた訳ではなく、日本国内の勤労奉仕に回ったことも考えられる。
 
しかし、「慰安婦110番」には次のような報告もなされているのだ。
 
    通信教育隊 1992年73才
    黒龍江省富錦で一人の朝鮮人慰安婦から聞いたもので、「『関東軍戦時特別挺身隊』という事で  
    したが、実際に来てみたら慰安婦だったと言って泣いておりました。・・・・朝鮮人女性は、京城の  
    駅に2000人が集められ、列車に乗せられて、満州の新京に下ろされました。そこで、20人から   
    30人に分けられ、また列車に乗せられ、各地に送られて行きました。
 
さらに長尾和郎も『関東軍軍隊日記』 (1968 年)もこう書いている。

    東満の東寧の町にも、朝鮮女性の施設が町はずれにあった。・・・・・三畳ぐらいの板の間にせん  
    べい布団を敷き、その上に仰向けにいなった女性の姿・・・・・・・これらの朝鮮女性は「従軍看護  
    婦募集」の体裁のいい広告につられてかき集められたため、施設で≪営業≫するとは思ってもい
    なかったと言う。それが満州各地に送りこまれて、言わば兵士達の排泄処理の道具に身を落と 
    す運命になった。・・・・・

 
慰安婦・挺身隊という名目で集めた女性の中には、性奴隷にされた者もいたようである。
 

日本の女子も「挺身隊」として集められたが、これは全て工場などでの勤労奉仕であった。ちなみに日本でも「挺身隊」の通知(白紙と呼ばれた)が来ると逃げられないので、これから逃れるために卒業を待たずに就職を決める人たちがいた。敗戦時の日本の工場にいた「女子挺身隊」の数は日韓合わせて50万人余。愛知県豊川海軍工場のように一時に2000余人もの若い女性が爆撃により死ぬような事もあった。しかし日本女性の場合「お国のために」自発的に「挺身隊」活動をした者も多かった。豊川海軍工場の爆撃はもちろん米軍によるものだが、一週間前にはビラが蒔かれ、それには爆撃予告がなされていたが、上司達は「信じないように」述べたと言う。当時の「鬼畜米英」「突撃玉砕」「虜囚の辱め」・・・の世相を物語る話である。 (参考『女子挺身隊の記録』いのうえせつこ著、『白紙に消えた青春』創価学会婦人平和委員会編など)