河野談話を守る会のブログ2

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朝鮮蔑視と慰安婦

◆『柳寛順の青い空』の作者 早乙女勝元氏の見た朝鮮人虐待

P14 「私の心に残る朝鮮人」より
・・・敵国アメリカ・イギリスに至っては「鬼畜米英」で、その親玉などは「出てくりゃ、地獄の
逆さ落とし」と歌ったものである。
朝鮮人は共に「挙国一致の聖戦」を戦う同胞のはずだったが、実際はそうではなく、ひど
い差別と組織的いじめの元におかれていた。
・・・・・・・・・・・・・・・
やがて勤労動員が始まり、1944年の秋から隅田川沿岸の鉄工場に狩り出されたが、私
はそこでも大勢の朝鮮人と労働を共にした。彼らは例外なく寒風吹きすさぶ野外での仕事
に明け暮れ、黄色のナッパ服姿で、腰のベルトがわりに荒縄を結んでいた。・・・・・・
 ・・・・・・・・・
工場には私達学童に対して「日本をしょって立つ諸君」などと歯の浮くような口を聞く労務
係りがいた。ところが朝鮮人徴用工には居丈高となった。野球バットのようなパッチョク棒
を持ち、なにかというと、
「この半島人め!」
「あめえらの一匹や二匹は、どうにでもなるんだ!」
差別用語を口にし、ところかまわず殴打し、足蹴にした。・・・・・

リンチだった。・・・・
バッチョク棒の代わりに鉄のチェーンを手にした労務係の相手は、草色ナッパ服で腰に
唐辛子の竹筒をつけた 男だった。
・・・・・・・
ぶしっぶしっと言う響きは、チェーンが肩の肉に食い込む音だ。
作業服は避けて、露出した皮膚がザクロのようにはじけていた。
・・・・・
労務係がこいつは給食をちょろまかそうとしたのだとののしったが、私はあまりのむごさに
貧血を起こしそうになった。もし仮にそういう事があったとしても、口で言えば分かるものを
凶器でめった打ちにしたら、とんでもない事になりかねない。
「見やがれ、こいつはな」
労務係は、・・・・言った。
「自分はたらふく食ったにもかかわらず、もう一回ありつこうとしたんだ。半島人のぶんざい
でだ。その一回のめしにもありつけず、腹を減らせて健気に働いているお前らがいるにも
かかわらずだ」
私は、奥歯をガチガチならしていた。なるほど私達は弁当もちだが、たらふく食った者
が、どうしてもう一回食おうという気になるのだろう。
「お前らだって、国の大事に殉ずる勤労報告隊員だ。こん畜生と思うだろ。憎かったらこ
れを貸してやる。さあ、やれ、やれ、思い切ってぶちのめせ。この意地汚ねえニンニク野
朗を!」
その時、私は見た。血まみれ青年の上に、誰かもう一人の草色作業服が被いかぶさっ
て、彼の身をかばい、必死で喚きだしたのを。さらにもう一人が続いて、倒れている男は
3重になった。その友情の熱さに私は息を呑み、圧倒される思いがしたものである。

 
戦前、日本は朝鮮半島の人々を激しく蔑視し、「チョン」「チョンガー」などと呼んでいた。現在の在特会などとまったく同じである。そして時には関東大震災の時の6000人虐殺のような虐殺さえ行った。とりわけ独立運動の砦となった天道教キリスト教への迫害は激しく、総督府警察はこれを「不逞鮮人」と呼んで暴行、逮捕し、いたるところで、悲惨な光景が見られたという。
慰安婦制度が始まった頃、最初慰安婦は日本人が多くいた。しかし、国際条約の規定もあり、すぐに底をついたのでやがて朝鮮がその主たる刈り場となった。軍の威力を背景に女衒達はあの手、この手で少女を駆り集めたが多くが10代であった。
慰安婦の証言の中には、最初の一ヶ月間程度は将校ばかりを相手にした例がいくつか見られる。これは、日本で昔から水揚げが珍重されたように、処女や素人娘である事が大切だった訳だ。日本の遊郭では、「初日です」と偽って数ヶ月売り出すような事がなされていたが、戦場では「処女を抱けば死なない」と言う迷信もあり、業者が将校へのヨイショのために朝鮮娘を使ったのである。
女衒の手段としては、買う、騙す・・が一般的で、買う場合にも「工場で働く」などという就業詐欺が多くあった。しかし女衒にとってもっとも儲かるのは、何と言ってもかどわかし・・・つまり誘拐である。日本では明治40年の新聞を湧かした多田亀吉が有名である。この男は13年間に1800人の少女を誘拐し、香港シンガポールに密航した大掛かりな誘拐女衒組織のボスであった。(森崎和江『からゆきさん』)こういう場合でも誘拐者はだいたい外国での『女中奉公』の話で娘達を釣ったという。これを朝鮮半島でやったのが「慰安婦」の徴集であった。30年代には悪徳な女衒の逮捕記事も多かったが、南京虐殺の頃から警察にひっかからなくなった。総動員体制下でも慰安婦の徴集は同じようになされたが逮捕された例はない。
慰安婦制度の中で朝鮮はもっとも手軽な狩り場だったのである。