1937~38 内務省・警察関係文書解説(1)
今日までに発表されている内務省・警察関係文書を探ってみましょう。
この内務省・警察関係文書は、日本政府による二度の調査(~1992年7月6日~1993年8月4日)の際に見つかっていなかったものが、その後96年には6点の警察史料が発見され、この発見によりそれまでよくわからなかったところがある程度はわかってきた。
それによれば、1937(昭和12)年末から翌38(昭和13)年のはじめにかけて、日本各地で女性を欺罔、あるいは誘拐まがいの方法で海外へ連れ出そうとしていた周旋業者(女衒)が取り調べを受けるという事件が、群馬県、高知県、山形県、和歌山県、茨城県、宮城県でおこっているが、取り調べを受けた周旋業者たちは、いずれも軍から依頼されたことを警察に訴えている。
なぜ軍が周旋業者に依頼したのか?についてはこのブログの読者はすでに知っているはずなので解説はしない。
また押収された資料から何がわかるか?という事も、永井論文を読んだ人には理解できたであろう。
以下、黒字ものは全て、日本政府が調査し発表した軍慰安婦関係第一次史料である。
群馬県では1938(昭和13)年1月19日に周旋業者取り調べの報告書が作成されている(財団法人女性のためのアジア平和国民基金編 『政府調査 「従軍慰安婦」関係資料集成 1 警察庁関係公表資料 外務省関係公表資料』龍渓書舎 1997年3月20日 11-21頁)。
それによれば、神戸市の貸座敷業者大内□□が
として、「在上海陸軍特務機関ノ依頼」で「酌婦三千人」を集めていると証言している。
さらに大内は、
といい、現在上海で貸座敷行を営んでいる中野□□を通して「約三千名ノ酌婦ヲ募集シテ送ルコトトナツタ」(前掲13頁)のだと主張した。
そして既に1937(昭和12)年中旬頃から女性集めの活動を行っており、しかも「兵庫県ヤ関西方面テハ県当局モ諒解シ応援シテヰル」(前掲13頁)として、これら周旋業者の活動に便宜協力している地方長官がいることが大内の口からわかる。
慰安所の営業形態も
として、詳しいところまで取り決めが行われているのがわかる。
しかし警察側は
として、本当に軍がそのような依頼をしたのか、これは「公序良俗ニ反スル」ものではないか、「皇軍ノ威信ヲ失墜スル」ものではないかとして、疑念を抱いている。
警察による押収資料としては契約書、承諾書、借用証書、契約条件の四点が添付されている(前掲14-20頁)
この中で契約条件の「年齢 満十六歳ヨリ三十才迄」(前掲20頁)の「満十六歳ヨリ」所に警察がつけている横線がある。この横線は何を意味しているのか。それは「満十六歳」という年齢の問題である。日本では「内務省令第四十四号 娼妓取締規則」(1900年10月2日)により「第一条 十八歳未満ノ者ハ娼妓タルコトヲ得ス」とあるで、これは明らかに国内法の違反であり、「21才以下は娼妓にしてはいけない」という国際法違反でもあった。さらにすでに「廃娼運動」が成果をあげ、多くの県では売春そのものが撤廃される方向があったのである。ゆえに警察としては、取り締まるのが当然ではあったが、軍の依頼であればどのように対処すればよいのか?
山形県県警により「北支派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件」として1938(昭和13)年1月25日に報告書が作成されている(財団法人女性のためのアジア平和国民基金編 『政府調査 「従軍慰安婦」関係資料集成 1 警察庁関係公表資料 外務省関係公表資料』龍渓書舎 1997年3月20日 23-24頁)。
それによれば、神戸市の大内□□が、山形県下の芸娼妓酌婦紹介者業者戸塚□□に対し
「今般北支派遣軍ニ於テ将兵慰問ノ為全国ヨリ二千五百名ノ酌婦ヲ募集スルコトトナリタル趣ヲ以テ五百名ノ募集方依頼越下リ該酌婦ハ年齢十六才ヨリ三十才迄前借ハ五百円ヨリ千円迄稼業年限二ヶ年之ガ紹介手数料ハ前借金ノ一割ヲ軍部ニ於テ支給スルモノナリ云々」(前掲23-24頁)
という依頼をしていることを警察が知り、戸塚□□を懇諭したところ戸塚本人も納得し、大内からの依頼を断ったというものである。
このとき警察側が不審に思い、戸塚を懇諭した理由として
「斯ハ軍部ノ方針トシテハ俄カニ信ジ難キノミナラス斯ル事案ガ公然流布セラルルニ於テハ銃後ノ一般民心殊ニ応召家庭ヲ守ル婦女子ノ精神上ニ及ホス悪影響尠カラス更ニ一般婦女身売防止ノ精神ニモ反スルモノ」(前掲24頁)
というものであり、前回の群馬県同様、本当にそのようなことを軍がしているのか、これは公序良俗に反するのではないか、銃後に不安を与えるのではないか、というものであった。
この警察側の態度は正当なものであるが、次に述べる和歌山県の事件で和歌山県警は長崎県外事課へ照会を出した結果、返事は「軍の意向であり、役割を決め、便宜を図るように」という事であった。
この事件以降、慰安婦を集める事が「軍の意向」である事が警察上層部に広く浸透し、警察側も違法行為を行う周旋業者を黙認し、その拉致同然のやり方を諌めながら慰安婦となる女性集めに協力していくこととなるのである。
しかし、日本で普通の若い女性を慰安婦にさせる手段は少なかった。だから拉致まがいの事をして警察ともめたのだ。日本国内で慰安婦を集めようにも集まらなくなって来たのである。最初は遊郭の女性達を慰安婦として送っていたが、そのタネが尽きると、業者が大掛かりに慰安婦を求めたのが、朝鮮半島であった。当時の半島は日本の植民地であったが、儒教の「処女性重視」の教えを受けて、ほとんどが結婚するまで性行為を知らなかった。そして業者(女衒)は彼女達を慰安婦にするために、あれやこれやのあらゆる手段を講じるようになる。「工場の仕事」「看護婦の仕事」「軍の炊事係り」などの誘い文句から新聞広告に至るまで、様々な方法が存在していたのである。その際同じような手段を使っても、軍の選定した業者は捕まらず、その業者に売り込んでいた朝鮮人女衒だけが逮捕されていた様子が東亜日報などの新聞記事として残っている。