1937~38 内務省・警察関係文書解説 (2)
では和歌山県で起こった事件とその後の経由を見てみよう。
和歌山県では、「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」として1938(昭和13)年2月7日に報告書が作成されている(財団法人女性のためのアジア平和国民基金編 『政府調査 「従軍慰安婦」関係資料集成 1 警察庁関係公表資料 外務省関係公表資料』龍渓書舎 1997年3月20日 27-46頁)。
これによれば、1938(昭和13)年1月6日、田辺町において挙動不審の男性三名を巡査が注意したところ
と答えたのであるが、怪しいので情報係巡査が更に調査したところ、料理店に勤務している酌婦を誘拐まがいの方法で上海へ連れて行こうとしているとして取り締まりをうけた。
三名のうちの金沢□□□□の供述によれば、会社重役の小西□□、貸席業の中野□□・藤村□□□の三名が陸軍御用商人と共に、東京で荒木貞夫・頭山満の両名と上海で慰安所を年内に作るため三千名の女性を日本から上海に送らなければならないことなどを会談。また既に七十名は送致済みで、その際大阪の九条警察署と長崎県外事課で便宜を受けたことなどを自供した。
不審に思った田辺警察署は九条警察署と長崎県外事課へ照会を出すこととなる。
長崎県外事課からの返信によれば、1937(昭和12)年12月21日に在上海日本総領事館警察より長崎県水上警察署長へ「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」という依頼が来ており、それによれば
とあり、在上海日本総領事館警察と憲兵隊と武官室(いわゆる特務機関)との間で、中国各地に「軍慰安所(事実上ノ貸座敷)」を設置することを決定したというものである。
そして三者の役割分担として
として、在上海日本総領事館警察が窓口となり、その後憲兵隊や武官室へ引き渡すという役割分担が出来ているのがわかる。
さらに
「右要領ニ依リ施設ヲ急キ居ル処既ニ稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ今後モ同様要務ニテ旅行スルモノアル筈ナルカ之等ノモノニ対シテハ当館発給ノ身分証明書中ニ事由ヲ記入シ本人ニ携帯セシメ居ルニ付乗船其他ニ付便宜供与方御取計相成度」(前掲38頁)
として、女性集めのため周旋業者が日本国内や朝鮮で活動を行っており、その業者に対しては便宜供与をはかってもらいたいというものであった。
また、周旋業者には本人の写真二枚を添附した臨時酌婦営業許可願、承諾書、印鑑証明書,戸籍謄本,酌婦稼業者に対する調査書という書類を持たせてあることも照会文には書かれてある。
つまり、前回まで群馬県などで女性を欺罔で上海へ連れて行こうとしている周旋業者が取り調べられていたが、彼らが証言していた「軍から依頼された」というものは正しかったのである。彼ら周旋業者は軍の依頼・指示により慰安婦となる女性を集めていたのであった。
また、九条警察署からの返信には
とあり、内務省から「非公式ナガラ当府警察部長ヘ依頼ノ次第モ有之」として非公式ながら依頼があったことや「当府ニ於テハ相当便宜ヲ与ヘ既ニ第一回ハ本月三日渡航セシメタル次第」として九条警察署が周旋業者の活動に便宜を与えていたこと(「三日」というのは金沢の証言と一致する)、「目下貴管下ヘモ募集者出張中ノ趣ナル」として和歌山県田辺警察署で取り調べを受けている者は軍から依頼・指示を受けた周旋業者であることが書かれてあった。
これらの照会文を受けて田辺警察署は取り調べ中の三名を1月10日に釈放している。
本来ならば、群馬県、高知県、山形県、茨城県、宮城県で行われたように、警察は欺罔や誘拐まがいの方法で女性を海外へ連れ出すようなことは取締り、検挙しなければならない。しかし、和歌山県の一件でわかったように、背後に軍がいるために違法と思われる方法で女性を集めていたとしても取り締まることが出来ないのである。それどころか警察は、そのような周旋業者に対して便宜供与を与えなくてはならないのであった。
この一件は、慰安所の設置と慰安婦の徴集を軍が主導で行っていたことがわかる事例である。
そして、以後警察による女衒の摘発は少なくなる。業者の手段も巧妙となりとりわけ半島においては、警察を刺戟しないで良家の婦女子をかどわかすために様々な手段が編み出されたのであった。