河野談話を守る会のブログ2

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続続々 盲論=秦郁彦『慰安婦と戦場の性』の嘘と矛盾を暴く


          3、資料をちゃんと読んでくださいよ、秦さん

         
             マンダレー資料を変に読む

すでに紹介した 林博史氏は秦郁彦慰安婦と戦場の性」批判週刊金曜日290号』http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper44.htmより抜粋)の中で、自分がイギリスで発見した時期も違うビルママンダレー資料4点が、秦氏によって混同され一つの資料として扱われていると指摘している。しかも問題はこの資料の読み方であり、原文では慰安所に於て営業者又は慰安婦より不当の取扱を受くるか或は金銭等の強要を受けたる場合は直ちに其の旨を所属隊長を経て駐屯地司令部に報告するものとし如何なる場合と雖も殴打暴行等の所為あるへからす」(原文はカタカナ)となっているというのだ。これは明らかに業者や慰安婦が兵士に対して不当な取扱や金銭等の強要をおこなった時の対応の仕方について書いている訳だが、秦氏はこれを「・・・兵士の乱暴や業者の搾取から慰安婦を保護」にしている。

この部分を抜き出しておこう。

Cのマンダレーでは、「不当な取扱いや金銭強要等は報告せよ、場合によっては所属隊の全員を立ち入り禁止」のような規定も入っており、兵士の乱暴や業者の搾取から慰安婦を保護しようとする配慮が感じとれる。

慰安婦と戦場の性」(P120)
 

何を「感じとって」くださっても良いのだが、資料の文面を変え、意味を変えてしまうのはいかがなものであろうか?


                 「強制だった」と読むでしょ、普通!
               泣いていても、グチを言っても強制ではないのか?


P384には、秦自身が、「私が信頼性が高いと判断して選んだものである」と書いた資料が並んでいる。

その中には次のような資料がある。


第五十九師団(済南駐屯)の伍長・榎本正代

一九四一年のある日、国防婦人会による〈大陸慰問団〉という日本人女性二百人がやってきた……(慰問品を届け)カッポウ着姿も軽やかに、部隊の炊事手伝いなどをして帰るのだといわれたが……皇軍相手の売春婦にさせられた。“目的はちがったけど、こんなに遠くに来てしまったからには仕方ないわ”が彼女らのよくこぼすグチであった。将校クラブにも、九州女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた
                         場所=中国中部山東省
本田勝一天皇の軍隊』P293)
秦郁彦慰安婦と戦場の性』P382)
 

つまり慰問団としてやって来た普通の日本女性200人を強制的に慰安婦にしたという話である。「こんな遠くに来たのだから」とグチを言ったり、騙されて泣いていた訳だが、秦氏はこれを「強制」の証拠とはみなさないらしい。
また、200人の日本女性を慰問団として呼んで慰安所に放り込んだのは、どう見ても業者ではなく軍であろう。

確かに、吉田清治が述べたような「朝鮮に乗り込んで官憲が嫌がる娘を無理やり連れて来た」わけではないが、騙して連れてきたり、遠くに来てしまい帰れない弱みに付け込んで婦人たちを慰安婦にしてしまう行為は同じくらい人間として狂っている。明らかに”人でなし”の所業である事は間違いない。

それから本論からは逸れるのだが、秦氏が「この資料が信頼性が高い」とする判断の理由がまったく分からない。特に信用できる理由とやらを聞かせていただきたいものである。

さて本論に戻る。
P18に書かれている次の資料もまた、同じようなものである。



日本当局は、1937年末の南京攻略後、徐州作戦が開始される頃に、朝鮮内の女衒たちに指示して、貧乏で売春生活をしていた朝鮮女性を多数中国大陸へ連れて行き、「慰安所」「簡易慰安所」「陸軍娯楽所」などの名称を持った日本軍の施設に配置し、日本軍兵士の慰みものにした・・・・日本軍に出入りする御用女衒たちが朝鮮に来て、駐在所や面長を先頭に「らくちんで金もうけできる仕事がある」と騙して連れ去ったのである。

秦郁彦慰安婦と戦場の性』P18)
(宋建鎬日帝支配下の韓国現代史』1984年、P345-346、この部分は金大商などの所論に依拠する)
 
この資料から秦氏

つまり朝鮮の女衒による就職詐欺まがいの勧誘が主で、その多くが売春婦だったことが的確に鍍られられており、官憲による「強制連行」というイメージはあまりでていない。

秦郁彦慰安婦と戦場の性』P18)



と読みとっているのだが、この資料から読みとらなければならないのは、「吉田清治の語ったような強制連行」か否かではなく、まず「業者の就業詐欺」を読みとれるだろう。そして日本当局は・・・朝鮮内の女衒たちに指示して」という事であり、女衒の活動の背後に軍がいて糸を引いていたのだ、ということを読みとるべきである。
さらに、
日本軍に出入りする御用女衒たちが朝鮮に来て・・・騙して連れて行った」と書いている事が重要である。1996年に見つかった警察公文資料にも1937年から8年にかけて、軍に選定された日本人の女衒が朝鮮半島に出かけて行った事が書かれており、また米国のミッチーナ資料も「日本の業者が出かけて行った」事を書いており、この点で一致しているのだ。この部分は公文によって裏付けられていると言えるのである。

内務省公文資料による朝鮮半島に出かける女衒達】

長崎県水上警察署長への長崎県外事課からの返信で

 「右要領ニ依リ施設ヲ急キ居ル処既ニ稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ今後モ同様要務ニテ旅行スルモノアル筈ナルカ之等ノモノニ対シテハ当館発給ノ身分証明書中ニ事由ヲ記入シ本人ニ携帯セシメ居ルニ付乗船其他ニ付便宜供与方御取計相成度」

http://www.awf.or.jp/pdf/0051_1.pdf アジア女性基金 内務省史料
財団法人女性のためのアジア平和国民基金編 『政府調査 「従軍慰安婦」関係資料集成 1 警察庁関係公表資料 外務省関係公表資料』龍渓書舎 1997年3月20日P38)

こうして様々な資料が、軍が背後で操っていた様子や 日本の女衒が朝鮮半島にまで出かけて行った様子を伝えている。



上記で秦氏が掲載した2つの資料は、1993年の「河野談話」の大まかな正しさを裏付けている。
「・・・・慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。」
また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。」
「・・・・総じて本人たちの意思に反して行われた。」
と談話しているが、河野氏自身が言うようにこの文章のどこにも特に問題がない事を、これらの資料からも知る事ができるのである。


          秦氏の不可思議な河野談話批判

秦氏は「河野談話」に対して批判的であり、「官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」という河野談話の表現が「募集段階で官憲が強制連行したかのような印象を与えるのはまずいと思った」(P250)そうだが、時折官憲が募集に直接関わったのは単純な事実である。秦氏が自分で「拉致まがいの徴集があったに違いない」(P137)と書いている豪北地区アンボンの例を出すまでもなく、占領地では官憲、軍人による強制的な慰安婦徴集がなされている。もちろん、スマラン事件を始めオランダ政府の提出した8件資料の全てが「拉致まがいの強制」であった事はいうまでもないだろう。

従って官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」という河野談話の表現には何の問題もありはしないのである。