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「軍の慰安所」と「民間の売春宿や料亭」の見分けについて



皇軍は、侵攻したほとんど全ての場所で慰安所を設置した。
しかし、皇軍が駐屯した場所には、元々存在していた遊郭(貸座敷)がある場合もあった。私娼はどこにでもいたし、満州のように大日本帝国の支配地には日本型公娼制度が輸出されていた。




皇軍将兵の中には、「慰安所」と「通常の売春宿や遊郭」と混同している者もいるが、たいていの場合は見分けがついたようだ。

以下のような資料が存在している。

阪野吉平氏が集めた戦場体験を聞きとった証言集である『戦争聞き歩き 生きてます』の中で米沢市の松本三郎さんはこんな体験談を話している。

 
司令部から少し離れたところに30人ほどの慰安婦がいた。軍が管理しているから性病の心配はなかった。それでもアレ好きな人は、自分の配給になった靴下などの物資を売り払って、個人経営の売春宿に行く。

『戦争聞き歩き 生きてます』p341)

山形32連隊の話である。ソ連と旧満州の国境にある神武屯という街には3千人の兵士がいたという。

ここでは、司令部の近くにある①「軍が管理している慰安所」と②「民間の個人経営の売春宿」が明確に区別されている。



昭和12年から昭和14年末まで軍で過ごした福田テン太郎氏の著作『いくさのにはの人通り』(私家版、1979年発行)には、こんな話も書かれている。中国での話だ。


 
戦地に来て軍人の相手をする女の人を慰安婦といった。娘子軍ともよんでいたが、慰安婦が正しいらしい、軍隊用語だったのかもしれない。これには官選とでもいうのか、国が公認で差し向けたと思われるのと、個人で開業する私物というべき性質のとあった官選の方は、日も時間もきまっていて、各班に切符と予防具、薬品が配られ、もらった切符を渡し、代金を払って遊ぶのであった。私の歌に、『憲兵が見張り順番で女買う、この久米の児等賑はしきかも』『慰安婦の洗浄の湯を沸かす苦力、ほむらに見れば汗しとどなり』がある。
『いくさのにはの人通り』279~p280



官選とでもいうのか、国が公認で差し向けたと思われるのと、個人で開業する私物というべき性質のとあった。」
官選の方は、日も時間もきまっていて、各班に切符と予防具、薬品が配られ、もらった切符を渡し、代金を払って遊ぶ」

というのだ。軍隊の各班で切符を渡すような私娼窟があるわけがない。


軍の慰安所では「桃色配給券」が配られていたという話は、他の著作にも書かれている。

歴史学者小林英夫氏と張志強氏が編集した『検閲された手紙が語る満州国の実態』小学館、2006年)には「関東憲兵隊通信検閲月報」所収の手紙が掲載されている。
1941年10月、武田某が満州・黒河から、秋田の村上某に送ったその手紙には、


 
北満黒河市街を去る北方4里にある山神府兵舎(中略)果てもなき広野に村もなく只一面に国威を示す各兵科の兵舎のみ。唯僅かに見えるのは陸軍官舎の一隅を利用して開設せられたる東西に慰安所あるのみ。慰安所と申せば一寸劇場か、見せ物小屋の様にも想像せられますが、さにあらず。此の兵舎に起居する兵どもの貴重なる精力の排出ヶ所なのです。慰安所の兵力は僅かに20名そこそこの鮮人にして、然も国家総動員法に縛られ、芳子や花子など桃色配給券が分けられ、軍隊でなければ見られぬ光景です。おまけに公定価格という解にて安サラリーには向きません。配給券も職権乱用にて専ら将校連中専用の状態です。

(『検閲された手紙が語る満州国の実態』p155~p156)



と書かれている。
広野の中には村さえなくて、ただ兵舎と慰安所のみがあった。その慰安所は、「国家総動員法に縛られた朝鮮人慰安婦」がいて、「桃色配給券が配られ」ていたが、それは「職権乱用にて専ら将校連中専用の状態」だったというのだ。


本田忠尚さんの著作 『茨木機関潜行記』(図書出版社、1988年)によると、昭和20年、昭南では料亭と慰安所について、以下のようなやりとりがあったという。


日本軍の後には料亭が従うといわれるくらいで、驚くほどの数の料亭が進出してきていた。これは昭南に限らず、南方占領地域の主要都市では、みなそうであった。もちろん戦前からのものもあったが、大多数は占領後に進出してきたものである。一番盛んなときは、東京から来た芸妓が昭南に200人いたという」「料亭の繁栄は、日本軍の敗勢と関係がなかった。末期的症状の料亭の繁栄を見るに見かねて、方面軍参謀部第一課(作戦)から、料亭をつぶせという強硬意見が出た。すると、民間の料亭を閉鎖するなら、軍の慰安所もやめてしまったらどうだ、との反対意見が二課(情報)から出て、結局、沙汰やみとなった。

(p12~13)


「民間の料亭を閉鎖するなら、軍の慰安所もやめてしまったらどうだ」という意見が出たそうだ。

この「民間の料亭」というのは、軍が侵攻したあらゆる地域について来たものであり、しばしば、元々の駐屯地近くにあった軍の将校御用達のものを誘ったりして造られた。http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/folder/1583418.html
軍にくっついていた企業の人間も利用したが、主に将校たちが利用したものである。しかしそれは「民間」であるという認識らしい。一方で慰安所は「軍の慰安所」とされていることから、その実質経営が軍の管轄下にあったことが分かる。

(それにしても、すでに敗勢が濃厚なのだから、民間人は全員退去させるべきだろう。しかし、人道的見地をほとんど持っていなかった皇軍は、沖縄戦のように危険な状況でも民間人を率先して退去させずに道連れにしたことも多かったのである。)

作者の本田氏は、陸軍特別操縦見習士官の南方要員として、昭和20年6月初旬、昭南(シンガポール)に。
茨木機関に配属される。
敗戦後、スマトラに移動し、独立闘争への加担。この著作では本田ら南方要員の回想が書かれている。




公文書でも、軍の「慰安所」と民間における「私娼窟」の区別はなされている。

例えば、「独立自動車第四二大隊第一中隊陣中日誌(昭17・7・6)」にはこう記録されている。


軍会報 七月四日 一五、〇〇 昭南
風紀の粛正並に防諜及悪疾予防の為自今軍に於て設置したる特殊慰安所以外特に私娼窟等に於て特殊慰安を求むることを禁ず

http://www.awf.or.jp/pdf/0051_3.pdf (p142)「独立自動車第四二大隊第一中隊陣中日誌(昭17・7・6)」


軍が慰安所を設置したから、おまえら今後は私娼窟等に行くなよ・・・という命令がなされている。



「秘」印がついた『駐屯地内務規定』もこう書いている。


兵第一〇一一五部隊

部隊駐屯地内務規定本冊の通り定む
昭和十八年九月二十三日
部隊長 中村忠

駐屯地内務規定
第八章 衛生
第二十一条 慰安所を設置せられたる時は予防法を講じ利用すべし。
第二十二条 私娼に接近することを禁ず

http://wam-peace.org/koubunsho/files/J_015.pdf 駐屯地内務規定』


これも、慰安所を設置したから、おまえら私娼に接近するなよ、ということだ。

こういう資料を読むだけで、「慰安婦はただの売春婦」などという意見が成立しないことが分かる。
慰安婦制度は軍が主体的に造った、かなり特殊な制度なのである。



昭和十三年中に於ける在留法人の特種婦女の状況及其の取締並に租界当局の私娼取締状況(在上海総領事館警察署沿革誌に依る)(昭13)

昭和七年上海事変勃発と共に我が軍部隊の当地駐屯増員に依り此等兵士の慰安機関の一助として海軍慰安所(事実上の貸席)を設置し現在に至りたる。然るに本業者も今次事変勃発と共に一時内地に避難したるが客年十一月頃には常態に復し其後在留邦人の激増と共に滬月、末広の貸席を増し十二月末日現在事実上の貸席十一軒(内海軍慰安所七軒を含む)抱酌婦百九十一名(内地人百七十一名朝鮮人二十名)となり前年に比し七十三名の増員となれり。而して一般貸席四軒は殆ど居留邦人を顧客とし他の海軍慰安所七軒は海軍下士官兵を専門に絶対地方客に接せしめず。且酌婦の健康診断も陸戦隊及当館警察官吏立会の上毎週一回専門医をして実施せしめ居るものなり。尚其の他当館管内に陸軍慰安所臨時酌婦三百名あり。



一般貸席は四軒あって、そのお客はほとんどが居留邦人であり、
海軍慰安所は七軒あって、これは海軍下士官兵を専門であって、絶対に海軍下士官以外を相手にしなかった、というわけだ。

「一般貸席」と「海軍慰安所」がきちんと分けられている。

以上から明らかになるのは、皇軍の指導者たちも、一般の兵士たちも、「軍の慰安所」と「私娼ないしは一般貸席」は、違うものとして見分けることができた、という事だ。(ただし、元将兵の著作には慰安所慰安婦という言葉を一般の私娼(私娼窟)にも適用している著作もある)

ではどこが違っていたのか?

それはいうまでもなく、「軍の慰安所」は軍が管理しており、軍の施設であった事に対し、「私娼ないしは一般貸席」はそうではなかったという事である。