「軍の慰安所」と「民間の売春宿や料亭」の見分けについて
以下のような資料が存在している。
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ここでは、司令部の近くにある①「軍が管理している慰安所」と②「民間の個人経営の売春宿」が明確に区別されている。
昭和12年から昭和14年末まで軍で過ごした福田テン太郎氏の著作『いくさのにはの人通り』(私家版、1979年発行)には、こんな話も書かれている。中国での話だ。
「官選とでもいうのか、国が公認で差し向けたと思われるのと、個人で開業する私物というべき性質のとあった。」
「官選の方は、日も時間もきまっていて、各班に切符と予防具、薬品が配られ、もらった切符を渡し、代金を払って遊ぶ」
というのだ。軍隊の各班で切符を渡すような私娼窟があるわけがない。
軍の慰安所では「桃色配給券」が配られていたという話は、他の著作にも書かれている。
1941年10月、武田某が満州・黒河から、秋田の村上某に送ったその手紙には、
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と書かれている。
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「民間の料亭を閉鎖するなら、軍の慰安所もやめてしまったらどうだ」という意見が出たそうだ。
この「民間の料亭」というのは、軍が侵攻したあらゆる地域について来たものであり、しばしば、元々の駐屯地近くにあった軍の将校御用達のものを誘ったりして造られた。http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/folder/1583418.html
軍にくっついていた企業の人間も利用したが、主に将校たちが利用したものである。しかしそれは「民間」であるという認識らしい。一方で慰安所は「軍の慰安所」とされていることから、その実質経営が軍の管轄下にあったことが分かる。
(それにしても、すでに敗勢が濃厚なのだから、民間人は全員退去させるべきだろう。しかし、人道的見地をほとんど持っていなかった皇軍は、沖縄戦のように危険な状況でも民間人を率先して退去させずに道連れにしたことも多かったのである。)
作者の本田氏は、陸軍特別操縦見習士官の南方要員として、昭和20年6月初旬、昭南(シンガポール)に。
茨木機関に配属される。
敗戦後、スマトラに移動し、独立闘争への加担。この著作では本田ら南方要員の回想が書かれている。
公文書でも、軍の「慰安所」と民間における「私娼窟」の区別はなされている。
例えば、「独立自動車第四二大隊第一中隊陣中日誌(昭17・7・6)」にはこう記録されている。
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軍が慰安所を設置したから、おまえら今後は私娼窟等に行くなよ・・・という命令がなされている。
これも、慰安所を設置したから、おまえら私娼に接近するなよ、ということだ。
こういう資料を読むだけで、「慰安婦はただの売春婦」などという意見が成立しないことが分かる。
慰安婦制度は軍が主体的に造った、かなり特殊な制度なのである。
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一般貸席は四軒あって、そのお客はほとんどが居留邦人であり、
「一般貸席」と「海軍慰安所」がきちんと分けられている。
以上から明らかになるのは、皇軍の指導者たちも、一般の兵士たちも、「軍の慰安所」と「私娼ないしは一般貸席」は、違うものとして見分けることができた、という事だ。(ただし、元将兵の著作には慰安所、慰安婦という言葉を一般の私娼(私娼窟)にも適用している著作もある)
ではどこが違っていたのか?
それはいうまでもなく、「軍の慰安所」は軍が管理しており、軍の施設であった事に対し、「私娼ないしは一般貸席」はそうではなかったという事である。