悪名高い皇軍憲兵の暴力性・拷問を振り返る
ここで書いた憲兵についてもう少し書いておこう
写真が趣味だった彼は、慰安婦、慰安所の写真を含む1300枚もの写真を残しており、その話を戦後の1957年に博多の情報誌『うわさ』9月号に『戦線女人考』と題して発表した。やがて、その濃密な情報が詰まった日記と共に『上海から上海へ 戦線女人考 花柳病の積極的予防法』(石風社)にまとめられている。慰安婦問題の第一級資料の一つである。

このブログではすでに幾度か論拠となる資料として紹介している。
『上海から上海へ』より抜

『上海から上海へ』より抜粋
脱走、立哨、捕える・・・などのキーワードが並んでいる。
まるで収容所みたいだ。
当時の皇軍の立哨と言えば銃を持って立ち、3度声をかけても答えなければ撃ち殺してもいいという規則があったという。
これでも、「強制は無かった」と言い張るのだろうか?
これに対して、どうしても皇軍の責任を認めたくないウヨク勢力は、「トラが出たり、ゲリラが出たりするので、それから守るためだ」・・・という屁理屈を述べたりしている。だがそんなバカげた妄想をする歴史家はいない。
皇軍が逃亡防止の見張り役をしたというのは慰安所が軍の兵站後方施設である以上当然のことである。右派が大好きな秦郁彦(歴史家)でさえ、「内地の遊郭では、この種の乱暴者や女の逃亡者を制裁する用心棒を雇っていたが、戦地では憲兵がその役割を果たした」(『慰安婦と戦場の性』p394)と書いている。
憲兵には「 女の逃亡者を制裁する」という怖い役目もあった訳だ。
◆この『上海から上海へ』にはさらにこんな話もある。

『上海から上海へ』より抜粋
武昌憲兵隊
昭和16年3月中旬、私は武漢の地を去る事となった。写真中真ん中の建物は、武昌憲兵隊、その後ろ小道を隔て私の勤務の場所、兵站病院レントゲン室があった。嫌でも聞こえる訊問の大声、悲鳴、水攻め。死者を甦らせよ、もう一事聞きたい事ありと私に命じる憲兵殿の語気、それは今でも悪夢である。この建物にはYMの三角マークと武昌基督教青年会と書いてある。
つまり「水攻め」などの取り調べ・拷問がなされ、「悲鳴」が上がっていたというのだ。確かに「泣く子も黙る憲兵隊」である。一度何かの嫌疑をかけられたら五体満足では出てこれないのが、取り調べ室であろう。それにしても「水攻め」というのは、よくある顔を水の中に突っ込んで、呼吸困難にして苦しませるやつだろうか?それとも、たらふく水を飲ませてから、腹を殴って戻させるという拷問だろうか?どちらも御免蒙りたいが、こんなサド傾向の強い暴力体質の組織が、誰に咎められる事さえなく、大手を振って歩いていたのが戦前の日本であった。そんな時代に正論を述べることは本当に難しかっただろう、と先人の苦難を改めて思う。自分で責め殺したのだろうが「死者を蘇らせろ」と叫ぶようなキチガイには関わるだけでも不快である。
憲兵隊の拷問
(拷問シーンは別にしてありますので見たくない方は見ないでください)
さて憲兵の拷問について整理しておこう。そうしないと「残酷な拷問は李朝にはあったが、明治以降の日本には無かった」などと無知蒙昧な嘘を一生懸命宣伝する人達がいるからである。井沢元彦と呉善花は『やっかいな隣人 韓国の正体』の中で対談しながらいっしょになって「総督府の統治下で拷問は禁止されていたから拷問は無かった」と言うのだが(『やっかいな隣人 韓国の正体』、祥伝社文庫、p84~90)、憲兵の拷問なんてとても否定しうるようなものではないのだ。
憲兵が行った拷問についてはすでに多数の信憑性の高い著作が存在している。
◆「満州」国において「特高の神様」とまで言われた憲兵・土屋芳雄からの聞き取りをもとにまとめた『ある憲兵の記録』 (朝日文庫)。土屋が拷問などを行い殺害に関与した人数は328人であったという。上記の「死者を蘇らせろ」と叫ぶようなキチガイ憲兵は決して例外ではないのである。

<拷問シーン>↓
安倍晋三首相の私的諮問機関「21世紀構想懇談会」(座長・西室泰三日本郵政社長)は6日、「戦後70年談話」に関する報告書を首相に提出し「日本は、満州事変以後、大陸への侵略を拡大した」と認めたようだが、その成果を安倍談話に生かすことが望ましい。それはともかく、他国を侵略しておいて「こいつは抵抗分子だ」と拷問し、殺害するとは、皇軍は本当に理不尽な連中である。突然侵入して来た敵に殺された側には怨嗟の声が満ちていただろう。南支那派遣軍の憲兵上等兵であった鈴木卓四郎のいた部隊ではこうした殺害を「厳重処分」と呼んでいたという。
処刑者
「今日の午後から、厳重処分を実施するから、勤務に支障のないものは、必ず出るように」と、警務主任の土井曹長から指示があった。
厳重処分とは警察用語の「厳重注意」「厳重説諭」の如きものと考えていた。しかし、どうもそんな生易しいものでないことが判った。それは留置場に収容されている現地人を処刑する、文字通りの厳重処分のことであった。
正午過ぎ、警務主任以下、新拝命の兵長、補助憲兵を含む二十名ばかり、庁舎の中庭、留置場前に集まっていた。既に処刑を受けるべき留置人五十人ばかり、二台のトラックに乗せられていた。 二十歳から五十歳位まで、青年から初老まで、農民もあれば、商人風もあり、果ては一見して敵側の軍人と判るものもいる、種々…雑多であった。
しかし、ぼうぼうと伸びた髪やひげ、青白くやせた顔色は、長時間の留置場生活を物語っていた。鉄帽を背負い、銃に着剣した補助憲兵が車上にあって警戒していた。処刑執行者たる我々警務係十余名は、三台自のトラックに乗って市内に出た。(P35)

<拷問シーン>
「死の十字架」という水につかった拷問があったらしい。麻生軍医の書いた「水責め」も「死の十字架」の事だったのかも知れない。