河野談話を守る会のブログ2

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ロラマシン最後の手紙


    
”安倍首相、わたしたちが語った真実を認めるよう、
あなたへ要請します。
それが、わたしが祈り求めてきた正義です”

と彼女は言った・・・・


ロラマシン最後の手紙

トマサ・サリノグさんの手紙を読むと涙が流れてしまう。

日本からのこころからの謝罪を勝ち取りたかった・・・・
家族を殺され、生涯をめちゃくちゃにされた償いがわずか200万円。
受け取れるようなものではなかった。
フィリピンには、トマサ・サリノグの他に数名の方が受け取りを拒否している。

トマサ・サリノグさんは、亡くなる直前、最後の力を振り絞るように安倍晋三に向けて手紙を書いている。ちょうど安倍晋三が「従軍慰安婦の強制はなかった」と公式発表した後のことだった。

安倍の胸には届かない言葉が宙を舞っている

叫んでも、叫んでも届かない苦しみと悲しみを

もし解放する事ができる者がいるとすれば

それは私達、日本人だけだろう。

彼女たちが負った痛み・・・・家族を殺され、強姦され、身体障害を負わされ、一生を破壊されたその苦しみを、私達が理解した時、彼女たちの魂は昇華するのである。



から転載






<参考資料:ロラマシンの国民基金への手紙>


アンティケ州サンホセサンティアゴにて
2001年4月4日
アジア女性基金 松田さま

 平和をお祈り申し上げます。
 2000年12月、わたしは東京で「女性国際戦犯法廷」に参加し、正義が達成されたという感覚を、やっと感じることができました。これまでは決して感じることのなかった気持ちでした。わたしはまた、アジア女性基金が提供してくださるという償い金では、わたしが女性として受けた権利の侵害、わたしに対して犯された重大な諸犯罪は、決して埋め合わせにはなり得ないことにも気づきました。日本政府 は、戦争中に日本軍がわたしの父やわたしに対して行ったことについて責任を問われるべきです。
 わたしは今や貧しく年老いた女性です。必要なものはあまりありません。一人暮らしで、毎日その日を何とかやっていこうとしています。年老いたわたしに今必要なのは、残りの日々を平和な気持ちで暮らすことです。お金は、どんな額であっても、わたしの父の死や、わたしの未来が失われたこと、夢が果たされずに終わったことの償いにはなり得ません。
 わたしは1992年に「慰安婦」として名乗り出ました。正義を求めたこの10年の苦闘の後、「女性国際戦犯法廷」が、ずっと思い焦がれてきた正義をわたしに与えてくれました。わたしたちに耳を傾け、真実を求めてわたしたちに尊厳を返してくれた裁判所は、これが初めてでした。
 わたしは、松田さんからお勧め受けたアジア女性基金のお申し出を、受けとらないことに決めました。これでわたしは、残された日々を、正しいと思うことのために自分は立ち上がったのだと満たされた気持ちで生きていくことができます。
 どうぞご理解いただけますように。ご親切なお申し出をありがとうございました。
トマサ・D・サリノグ

<参考資料:ロラマシンの証言>
冒頭陳述(要旨) 1993年10月15日 東京地裁第1回口頭弁論期日
 私トマサ・サリノグは、1928年12月8日(フィリピン、パナイ島)アンティケ州の州都サンホセで生まれました。母は私の生後1か月で亡くなり、兄弟はおりません。
 1942年日本がフィリピンを占領したとき(注サンホセ近郊への日本軍上陸は同年4月17日)私は13歳で、父と山へ疎開しました。州知事の安全宣言で家へ戻りましたが、町は日本兵で溢れていました。軍の駐屯所が家の近くにありました。
 2週間後の夜中2人の日本軍人が押し入ってきて私を連行しようとしました。父が抵抗すると、後でヒロオカ大尉と知った軍人が刀で父の首を打ちました。私は父を助けようと駆け寄り、抱き起こすと頭が無くなっていました。あまりの悲しさに泣き叫ぶ私を、日本兵は容赦無く家から引きずり出され、父の亡骸はそのまま放置されました。
 私は、ゴビエルノ通りにある2階建ての家の1室に鍵で閉じ込められました。夜明け前にやってきたヒロオカ大尉らに強かんされました。まず大尉で、次ぎの兵士のとき再び抵抗すると頭を殴られ気絶しました。3日経つと日本 兵がまたやってきて毎日2人から5人位の兵士に強かんされました。自分が正気を失ってしまったと思えることもありました。ただ座って何時間もぼんやりと宙をを見つめ、いつも父のこと、どうやって殺されたかを思い出していました。
 ある日兵士が部屋のテーブルのうえに鍵を忘れたことを機にある夫婦の家へ逃げ込み、匿ってもらい、家事の手伝いをしていました。しかし、オクムラという日本 軍人に見つかり、私を引き渡さなければ殺すと夫婦を脅し、私を連れ出しました。
 私はオクムラの家へ連れて行かれ、奴隷のように扱われました。洗濯や掃除を命じられたほかにオクムラが帰る度に強かんされました。オクムラは来客があると、その者に私を強かんさせることもしました。しかしながら、私はオクムラの家から逃げ出そうとは考えませんでした。逃げたら殺されるか拷問される、という思いと、あの大きな家で多人数の日本 兵に強かんされるよりは、オクムラの家の方がまだましだという思いからです。
 日本軍がサンホセから完全にいなくなって私はオクムラから解放されました。
 それ以来ずっと一人で暮らしています。日本兵によってとても深く傷付けられたため、結婚したいとは一度も思いませんでした。日本の占領中に辱められた経験を思い出すたびに苦痛と恥ずかしさでいっぱいになります。日本軍によって父が殺されたこと、性奴隷にされたことを思い出すたびに泣いたものでした。戦争中の辛い体験から何年経っても、時折父のことを考えては、何時間も坐り続けることがあります。
 戦争によって父は殺され、私は唯一の身寄りを亡くしました。学校へも行けず裁縫をして生活をたててきました。性奴隷とされたことによって私の人生、将来が破壊されてしまったのです。
 若いころは何人かの男の人に好意を寄せられましたが、全て断りました。セックスのイメージには暴力と強かんの記憶が付きまとうからです。それは汚らしく、寒気のするものでした。交際を断った際にある男性には、「日本人を何百人も相手にするほうがいいのだろう」と侮辱され、家に投石までされました。自分の子供はほしかったのですが、この経験のせいで結婚しないほうを選んだのです。
 しかし、名乗り出ることによってさらに傷つきもしました。近所の人に、補償金が入るのだから強かんされて運がよかった、戦争で金儲けができたなどといわれています。 

 私は既に年老い、貧困のうちに一人で暮らしています。食べるものにも困り、健康を害しているのでもう長くは生きられないでしょう。正義がすぐに実現されることを望みます。十分すぎるほど苦しみました。体は弱り、健康状態も日々衰えていっています。ですから日本政府 、そしてここにいらっしゃる裁判官の方々に、正義の実現をこれ以上遅らせないでくださいと訴えます。お願いですから、どうか、自分の人権と正義が回復されるのか否か、わからないままに私を死なせないでください。

<参考資料:ロラマシンの阿部首相への手紙>
2007年3月29日
内閣総理大臣 安部晋三首相 様

 わたしはフィリピン、アンティケ州サン・ホセ市の住人で、現在78歳のトマサ・サリノグと申します。
 1942年に日本兵士たちがアンティケ州サン・ホセ市の私たちの家に強制侵入したとき、わたしは13歳で、一人娘として父と二人で暮らしていました。わたしの父は、兵士たちが私を連れ去るのを防ごうとして兵士たちに殺害されました。
 それから約2年間、わたしは日本 兵士たちによって奴隷として監禁され、強かん、虐待されました。日本 兵士たちはわたしから唯一の家族を奪いました。わたしは赤貧の中、一人ぼっちとなり、面倒をみてくれる人もいなくなったため、学校に戻ることはできず、生き延びるために働かなければなりませんでした。戦争と性奴隷制によって、わたしの人生と将来は破壊されました。
 わたしは今や年老い健康も蝕まれています。日本兵士による虐待と、生き延びるために余儀なくされた重労働によって負った病は、今も続き深刻さを増しています。
 わたしは貧しく健康を害する中で、アジア女性基金の受け取りを拒否しました。アジア女性基金によるつぐない金では、わたしへの女性の人権の侵害と深刻な犯罪を償うことはできません。日本軍がわたしの父親とわたしに対して行った行為に対して、日本政府は責任をとらなければなりません。
 安倍首相、わたしたちが語った真実を認めるよう、あなたへ要請します。それが、わたしが祈り求めてきた正義です。わたしたちは日本の平和への取り組みについて知っていますが、正義がなければ世界で平和は実現されません。わたしが死ぬ前に正義が実現されることを願います。

トマサ・サリノグ