河野談話を守る会のブログ2

ヤフーブログ閉鎖のため移住しました

38年頃の慰安婦体験を語る公文資料



京高秘第2303号『流言飛語者処罰に関する件』1938年9月13日(京城地方法院『昭和14年 思想に関する情報』)によると

1939年9月、ソウルで流言を述べたとして一人の女性が有罪にされている。

この女性の申し立てによると、彼女は南京の慰安所で1年半の間、「就労」していたのだという。

そこでは「1日70名くらいの客をとっていた。そこで身体を壊してしまい、食欲減退、腰痛、神経衰弱などの症状があり、たびたび病臥に伏していた」と言う。

こうした体験をした彼女は「回避スルタメ」・・・つまり、もう慰安所には行きたくないと思って、「第一線ノ娼妓ハ軍人ト共ニ戦争ニ参加シタルコトアリテ実ニ危険ナレバ今後ハ如何ナルコトアルモ皇軍慰安所ノ娼妓トナラズ」と周りに言ったので、これが「流言」と判断されたのである。


そこで取り調べ官はこの話をおおむね認め、「同情シタル点」有りとしてたった7日の拘留で済ませている。

これが話の顛末である。

この文章の全文は、藤永壮教授の論文『戦時期朝鮮における「慰安婦」動員の「流言」「造語」を巡って』に掲載されているのだが、藤永教授は

「こうした慰安婦の酷使は数多くの被害者の証言や一部兵士の回想と一致するだけでなく、日中戦争初期に上海に送られた日本人慰安婦の体験の中にも同様な事例を発見する事ができる。日本の警察・検察当局はこうした慰安婦の過酷な生活実態を認めていたのである」
と書いている。

藤永教授プロフィール
大阪産業大学 人間環境学部 コミュニケーション学科
 専攻朝鮮近現代史



















兵士の回想というのは、曾根一夫『元下級兵士が体験見聞した従軍慰安婦』(P70~120)だが、

「食事をしていた間も腹の上に男がのっかて律動していたから、男のものが胃袋を突き上げるような気がして、気分が悪くなって吐き気を催しそうになった。」
おそらく慰安婦は毎日百人以上の男を相手にしたと思う。
(中略)その慰安婦は接客中に力尽きて絶命した。(略)死体の処理に当たった衛生兵が後日語ったのによると、死体を寝台からおろすと、慰安婦の汗と脂と垂れ流した尿水がミックスして発酵した臭気が、目に痛いほど発散した。敷布団は体の当たっていた部分がボロボロに腐って、人の字型に抜けていたといった。

という。