河野談話を守る会のブログ2

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東中野修道の歴史修正の方法論



『「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究』の「あとがき」で著者の東中野修道は、南京虐殺否定の方法についてこう書いている。


南京虐殺」があったかなかったかという問題において「なかった」証明することは、大変難しいのである。その直接証明を行うことは不可能と言ってよい。例えば宇宙人はいないと証明できる人がいるだろうか。また透明人間はいないと、誰が証明できるだろうか。(中略)宇宙人や透明人間など存在しないと間接的に証明する方法が一つだけある。それは宇宙人や透明人間を見たという人が出てきた時、その確実な証拠はあるのか、それは真に証拠たりうるかどうか一つ一つしらみつぶしに調べていくことだ。
そうして、その証拠や証言に一点の不明瞭さも不合理さもないと確認されない限り、宇宙人や透明人間がいるとはいえなくなるのである。ひいては、これが宇宙人や透明人間がいないという、間接的ながらも唯一の証明方法となる。「南京」研究に際して私が採用した研究手法はまさにそれである。
(P272~273)


ここで「透明人間は見えんだろ」と上方漫才風に突っ込みたくなる人は、当「河野談話を守る会」の入会資格をクリアーしている。

それはともかく、東中野はここで彼らの歴史修正の方法を披露してしまっているのである。
まず第一に、前提として最初から「否定すること」を目的としているという事である。
「研究」を始める前から「否定すること」が決定されているのだ。こうしてどんな証拠も否定するために”いちゃもん”を付けるという彼らの独特のやり方が生まれる事になる。独特と言っても、「アウシュビッツでは6百万人も殺せない」とか「ヒトラーユダヤ人の友だった」とか唱えていたネオナチの[一点攻撃]歴史修正法とは実によく似ているのではあるが。
慰安婦問題も同じで、最初から「否定すること」を目的として、いかに”いちゃもん”をつけるかを研究するのが、彼らのいう「研究」になってしまっている。だから彼らの研究とやらは常に”いちゃもん”をつけるためだけに存在しているのである。

第ニに、
「疑われるもの=否定されるもの」として、歴史学的探究を完全に否定してしまっている事が問題である。「歴史学は、史料や証言を丹念に収集総合し、そこから帰納法的にある歴史事実の存在を証明していくのが基本である」(南京事件と日本人』P184)
当たり前の話であり、もし東中野の意見が正しいとして、そのやり方を全てに当てはめるなら、「ルワンダ内戦の虐殺」も「スターリンの虐殺」も無かったという事になる。

南京では何人虐殺と認定できる史料は一つもないのである。ない限り、南京虐殺はグローバルな共同幻想にとどまるのである。(『徹底検証』P362)
と書いている。

つまり、何人虐殺と認定できないような虐殺は全て「共同幻想」である、ということになってしまう。するとわずか20年前に引き起こされたルワンダの虐殺だが、虐殺数は50万から100万人説まで幅広く、人数を特定する確実な史料などないがゆえに否定されてしまうことになる。また旧ソ連スターリンの虐殺は、1千万から5千万までかなり幅広く説があり、その「虐殺数を認定できる史料が無い」がゆえに「共同幻想」なのか?

それどころか、「確実な証拠」が必要だという考え方で徹底的に追及すると「歴史」など無くなってしまうのである。果たして大和朝廷など存在したのだろうか?これを証明する”確実な証拠”などどこにあるのだろうか?欽明天皇が実在した証拠がどれくらい残っているというのだろうか?

あるいは、あなたとやさしいお婆さんとのエピソードがあったとして、その出来事が本当に在ったという確実な証拠はあるだろうか?

歴史は疑い始めるとどこまでも疑う事ができる。現代でも地動説を疑い天動説を信じている人もいるように、何でも疑う事は可能なのである。
結局この問題は実は我々の人生論まで辿りついてしまう。
我々には”確実なもの”など何一つ無いからである。今眼の前にある机が確実に実在しているという証拠が見つけられなくて哲学者を悩ますのである。
ゆえに「疑われるもの=共同幻想」という東中野の論理は、ただのペテンの論理である。

第三に
だから東中野のやり方では、オーラルヒストリーが全て否定されてしまう。口伝という奴で、伝わる歴史も存在しており、これも歴史学の研究範中に入るのだが、「確実な証拠」がなければ否定するというのであれば、こうしたものは全て否定されなければならない。

さて、こうした否定のための”いちゃもん”論法を自己の研究法?としていた東中野は、南京事件の体験者や目撃者に対して、”いちゃもん”攻撃をやり始める。これが夏淑琴(シアシューチン)さんに名誉棄損で訴えられた。「南京夏淑琴裁判」である。南京虐殺で家族を惨殺された夏淑琴さんは南京事件の生き残りであり、有力な証言者である。夏さんの証言を支える複数の史料が揃っているがゆえに笠原一九司氏は「鉄証」(鉄のように固い証拠)と呼んだ生き証人なのだ。
その夏さんを東中野『「南京虐殺」への大疑問』の中で「ニセ被害者」「ニセ目撃者」だと決めつけた。これは例によって「一点でも不明瞭、不合理があれば信憑性がない」という修正論の理論に基づいている。
ところが、東中野が「不明瞭、不合理」としていた点は、彼の誤読によっていた事が裁判の中で明らかになってしまったのである。
つまり正真正銘のただの”いちゃもん”であった事がバレたのだ。


このブログの中で、沖縄「集団自決」裁判が曽野綾子の「誤読」によって始まった事をお伝えした。http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64355678.html
また吉見裁判の始まりには桜内議員の「吉見」と「吉田」の「勘違い」疑惑がある事もお伝えした。http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64246539.html

そしてこの「南京訴訟」も、「誤読」に端を発している。

ではそれはどんな「誤読」だったか?それは次回のお楽しみである。歴史論争は知れば知るほど面白い。そこには人間くさい妄想や願望が入乱れ、少し知識があるだけのネトウヨがたくさんいるように見える。彼らは一億総ネトウヨ化を目指しているようだが、残念でした。詭弁の論法はすでに見抜かれてしまっている。