河野談話を守る会のブログ2

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東中野修道の歴史修正の方法論(2)誤訳から造る物語り




1937年12月13日、南京城内になだれ込んだ日本軍は、夏さん一家に襲いかかった。
「私の家族9人の内7人は、日本軍に殺されました。母と2人の姉は、下半身を裸にされて殺されたのです・・・」と夏さんは裁判の席で訴えた。顔を真っ赤にして、目からは涙があふれ出した。

日本兵はまず、夏さんの父親をいきなり射殺した。驚いた夏さんたちは家の中に逃げ込む。日本兵は中庭の奥の避難所に入り込み、赤ん坊を叩きつけて殺すと母親を輪姦し、膣にビンを押し込んで殺害した。やがて彼らは夏さんたちが逃げ込んだ部屋にも押し入って来ると祖父母を撃ち殺し、2人の姉は輪姦した上に殺害、夏さん自身も3か所を刺されたという。
生き残ったのは、8歳の夏さんと妹の2人だけだった。

やがて夏さん達は、自分達の体験を安全区の中国人担当者に話し、南京安全区国際委員長のジョン・G・マギー宣教師に伝えられ、マギーは惨殺現場におとずれて、16ミリフィルムで撮影した。この事はジョン・ラーベの日記にも書かれている。(南京の真実講談社P213)
アーネスト・H・フォスター宣教師の妻宛て書簡(1月26日)にも書かれており、マギー宣教師の「妻宛ての手紙」(1月30日)にも書かれている。
マギーは、フィルム解説文を書き、この解説文は駐華ドイツ南京大使館員のローゼン書記官によってドイツ本国に送られた。

笠原一九司氏が「鉄板のように固い証拠」という理由がよくわかる。ところが東中野は、”いちゃもん”をつけ始める。

東中野は、マギーのフィルム解説文の「8歳の少女は夏さんではない」というのだ(『徹底検証』P247~P250)。しかし裁判が進行するにつれ、東中野が重要な構文の誤訳をしている事が発覚した。
問題は、解説文の中の

・・・(略)・・・・
The soldiers then bayonetted another of between7-8,who was aiso in the room.・・・(略)

という部分で、東中野はこれを「それから兵士たちはもう一人の7、8歳になる妹も銃剣で突き殺した」と訳した(P241~242)。しかし正解は「さらに兵士たちは、部屋にいたもう一人の7,8歳になる妹を銃剣で刺した」とならなければならない。東中野は、「bayonet」を突き殺したと翻訳したので、その後で出てくる「8歳の少女」とも別人だと思いこみ、「夏さん」とも別人だとして考察した。
そしてこう書いている。

これまでの検証からも分かるように(略)「8歳の少女」と夏淑琴とは別人と判断される。
「8歳の少女(夏淑琴」は、事実を語るべきであり、事実をありのままに語っているのであれば、証言に食い違いは起るはずもなかった。
さらに驚くことには、夏淑琴は日本に来日して証言しているのである。(P247~P250)

驚くことに、この全てが誤訳から生じる妄想の産物である。

こうして誤訳を元に物語を作り上げ、夏さんを「偽もの」と断定したのである。自分が勝手に誤訳し、デタラメ考察を書き連ね、ついには「偽もの」扱いである。
我々はこういう手前勝手なストーリーを造り上げては、偉そうに相手を攻撃する連中をよく知っている。
ネットの中にはたくさん生息中である。

東京地裁判決では東中野の、この奇怪な[翻訳と解説]に対して

通常の研究者であれば、「突き殺した」と解釈したことから生じる上記不自然・不都合さを認識し、その不自然さの原因を探求すべくそれまでの解釈過程を再検討して、当然に「7、8歳になる妹」と「8歳の少女」が同一人である可能性に思い至るはずである。


と述べ

被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない。

と厳しい判決を述べた。
(そりゃそうだろ)



被告側は、不服として東京高裁に控訴した。そしてこれまでの主張を全て捨ててしまい、まったく別の主張をし始めた。つまり、夏さんを否定できれば何でも良かったのだという事がはっきり分かる。
そしてこの新しい主張がまた傑作なのである。「中国軍が両一家を殺害した」とか「マギー宣教師が反日宣伝映画を作成することを計画し様々な創作をした」「8歳の少女はマギーの空想の産物だ」とか、まるで資料も根拠も存在しない妄想を繰り広げている。当然、裁判所もこうした詭弁を相手にせず、この主張を退けた。しかし、醜い話である。
誤訳をして、勝手にお話を造り上げ、「偽モノ」呼ばわりしたあげく、誤りが発覚しても自分の非を認めず、別のお話を造り上げてしまう。
これまた、ネットでよく見る光景である。

「証拠や証言に一点の不明瞭さも不合理さもないと確認されない限り・・・」とか書いていた東中野だが、その自分の方が「一点の不明瞭さも不合理さもない」とは言えないのだと気づかないのだろうか?
むしろ、彼の主張の方が「不明瞭さと不合理さ」に満ちているのである。
「他人の目のゴミよりも、自分の目の梁をまず取るべきである」とはこの事だろう。
この人達には、古い哲学者の言葉である「無知の知」という言葉を贈りたい。






通牒「今次事変ニ関スル交戦法規ノ適用ニ関スル件」
1937年8月5日陸軍省から各支那駐屯軍
「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ 」
「戦利品、俘虜等ノ名称」は使うな」
日本軍は日中戦争をあくまでも「事変」として、この戦争に国際法を適応しないと決め、「俘虜収容所」を設置した後も、中国人捕虜を法の外に置き、虐殺・虐待・酷使を繰り返した。
南京虐殺はこうした日本軍の在り方が表に顕れた象徴的な事件であった。

陸軍第五十九師団師団長陸軍中将藤田茂筆供述書「俘虜殺害の教育指示」
「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」 「此には銃殺より刺殺が効果的である」
侵略の証言-中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店))


鬼になる洗礼
 昭和7年(1932年)1月のある日だった。入営して二ヶ月にもならない。兵舎から200メートルほど離れた射撃場からさらに100メートルの所に、ロシア人墓地があった。その墓地に三中隊の60人の初年兵が集められた。大隊長や中隊長ら幹部がずらりと来ていた。「何があるのか」と、初年兵がざわついているところに、6人の中国の農民姿の男たちが連れてこられた。全員後ろ手に縛られていた。上官は「度胸をつける教育をする。じっくり見学するように」と指示した。男たちは、匪賊で、警察に捕まったのを三中隊に引き渡されたという。はじめに、着任したばかりの大隊長(中佐)が、細身の刀を下げて6人のうちの一人の前に立った。だれかが「まず大隊長から」と、すすめたらしい。内地からきたばかりの大隊長は、人を斬ったことなどなかった様子だった。部下が「自分を試そうとしている」ことは承知していたろう。どんな表情だったか、土屋は覚えていない。彼は、刀を抜いたものの、立ちつくしたままだった。「度胸がねえ大隊長だナ」と、土屋ら初年兵たちは見た。すぐに中尉二人が代行した。 ヒゲをピアーッとたてた、いかにも千軍万馬の古つわもの、という風情だった。こういう人ならいくら弾が飛んできても立ったままでいられるだろうな、と思った。その中尉の一人が、後ろ手に縛られ、ひざを折った姿勢の中国人に近づくと、刀
を抜き、一瞬のうちに首をはねた。土屋には「スパーッ」と聞こえた。もう一人の中尉も、別の一人を斬った。その場に来ていた二中隊の将校も、刀を振るった。後で知ったが、首というのは、案外簡単に斬れる。斬れ過ぎて自分の足まで傷つけることがあるから、左足を引いて刀を振りおろすのだという。三人のつわものたちは、このコツを心得ていた。もう何人もこうして中国人を斬ってきたのだろう。
首を斬られた農民姿の中国人の首からは、血が、3,4メートルも噴き上げた。「軍隊とはこんなことをするのか」と、土屋は思った。顔から血の気が引き、小刻みに震えているのがわかった。そこへ、「土屋!」と、上官の大声が浴びせられた。 上官は「今度は、お前が突き殺せ!」と命じた。

・・・「ワアーッ」。頭の中が空っぽになるほどの大声を上げて、その中国人に突き進んだ。両わきをしっかりしめて、といった刺突の基本など忘れていた。多分へっぴり腰だったろう。農民服姿、汚れた帽子をかぶったその中国人は、目隠しもしていなかった。三十五、六歳。殺される恐怖心どころか、怒りに燃えた目だった。それが土屋をにらんでいた。
目前で仲間であろう三人の首が斬られるのを見ていたその中国人は、生への執着はなかった、と土屋は思う。ただ、後で憲兵となり、拷問を繰り返した時、必ず中国人は「日本鬼子」と叫んだ。「日本人の鬼め」という侵略者への憎悪の言葉だった。そう叫びながら、憎しみと怒りで燃え上がりそうな目でにらんだ。今、まさに土屋が突き殺そうという相手の目もそうだった。
恐怖心は、むしろ、土屋の側にあった。それを大声で消し、土屋は力まかせに胸のあたりを突いた。・・・
独立守備隊の対ゲリラ戦

7月7日のある日、鄭家屯のそばの大林駅の近くで、鉄道が爆破された。「それ!」と、土屋らは鄭家屯から現場に向かった。すぐ近くまでたどり着いた時、関東軍の飛行機五機が飛んできて、大林駅近くの中国人たちの集落に爆弾を投下した。八十戸ほどの集落は、爆発音と共に砂煙上げ、約四十戸の民家は完全に崩壊した。爆撃といっても、当時は操縦席から迫撃砲弾を手で投げつける程度のものだった。住民にとっては、たまったものではない。土屋たちの部隊の隊長が、関東軍に鉄道爆破の連絡をしたことによって飛来した爆撃機だが、その八十戸の集落が鉄道爆破と関係あるかどうかは全く不明だった。むしろ、何の関係もなかったのではないか。いわば、盲爆であった。・・・・・・二日間の行動で一人の抗日軍も捕らえることができなかった。大隊長は怒った。三日目に、配下の四個中隊の約四百人を鄭家屯に集結させ、鉄板で覆われた装甲列車や天井のない貨物列車などを編成して出発した。土屋たちに目的地は知らされていなかった。出発して間もなく、列車は停止した。鄭家屯駅の北、約八キロの小高い丘だった。大隊長は、列車から見える約二キロ先の百五十戸ほどの集落を攻撃目標と指示した。「あそこは抗日軍の巣だ」ということだろう。むだ足二日間で、くたくたになっていた土屋たちにとってはどうでもいいことだった。貨車の上から迫撃砲重機関銃、擲弾筒などの武器が、その集落をにらみ、「撃て!」で、一斉にジャガジャガ撃った。
土屋は、その時、重機関銃分隊に配置されていた。土屋はもっぱら弾運びや雑用だった。まず、迫撃砲弾が集落で爆発すると、住民らは逃げ惑った。そこへ、重機関銃が火を噴いた。ダ、ダ、ダ、ダッ…。土屋の分隊重機関銃は一気に二千五百発を発射し、銃身が赤く焼けたほどだった。一時間ほどで攻撃は終わり、再び鄭家屯へ戻った。まったくの撃ち放しだった。大隊長は「抗日軍の本拠地を殲滅し、戦果は…」と、関東軍に報告したのだろう。その集落が抗日軍の本拠地でないことは、逃げ惑う農民たちを見れば一目でわかったし、何よりも、反撃の弾が、ただの一発も飛んでこなかった。
・・・
(土屋芳雄氏(後に憲兵となる)の証言を聞き書きある憲兵の記録」朝日新聞山形支局(朝日文庫))