河野談話を守る会のブログ2

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挺身隊として集められたという話

    韓国では戦前から「挺身隊」と言えば
    性の相手をしたと思われていた


朝日新聞を攻撃際に、西岡力等の右翼勢力が使った論理に「挺身隊の名で慰安婦を徴集したと書いたのは、捏造だ」という議論がある。しかし、これがただの勘違いにすぎない事はここで述べている。
「挺身隊」と言ってもそれは「女子勤労挺身隊」とは限らないのである。軍や軍関係の組織を呼称する際に広く「挺身隊」という言葉が使われたからだ。

戦争直後、朝鮮半島に帰国した元「女子勤労挺身隊」員が、自分が「女子勤労挺身隊」に行った事を他人に言えなくて苦労したという話がある。こういう話から考えて戦前から韓国では「挺身隊」と言えば「軍人の性の相手だ」と言われていた事が分かる。それは単なる噂ではなく、ある程度の”事実”を含んでいたのである。

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(赤線はブログ主による)

イメージ 1

(伊藤孝司『[証言]従軍慰安婦女子勤労挺身隊』p26、李東連(イ・トンリョン)の話

「・・・・韓国では「挺身隊」というと、兵隊の相手をしたように思われていたからです。」・・・と書いている。





    「女子勤労挺身隊」として集められた人の中
  にも「慰安婦」とされた人がいた・・・・・と言う事


この話は、慰安婦にされてしまったという話ではなく、挺身隊として集められ、行った先には「慰安婦」にされる人々が集められ、泣いていたという目撃談である。本人はあまりに幼かったので、「慰安婦」にさせられる事はなく、その後工場で働いている。それにしても信じられないほどの貧困である。


(略)
そんな時に、姉に「挺身隊」の徴用令が来たんです。それはメモのような小さな紙に赤い字で書いてありました。それを受け取ったという判を取って行きました。
姉さんはその前に学校で「挺身隊」の講習を受けていたのです。でも、姉さんは行きたくないので隠れていたんです。
そしたら日本の巡査一人と、面(村)事務所から2人の朝鮮人がやって来ました。巡査が探しても見つからなかったので、姉より4歳年下の私を連れて行ったんです。私は妹の方だと分かっていてです。
(略)
関麗連絡船にのったらそこには私と同じような人が10人ぐらいいました。私は無かったのですが、体の大きい人は着替えをもらっていました。下関に着くと東京に行くのだと聞きました。
(略)
大きな建物に入ると、そこには20人くらい女の人がいて、その人達を二つに分けていました。「こちらの人は満州」「こちらの人は南洋方面に行く」というようにです。みんな泣いていました。
(略)

この後本人は背が小さすぎると朝鮮に帰され、そこで今度は鐘紡の工場に入れられるという話である。(伊藤孝司『[証言]従軍慰安婦女子勤労挺身隊』p64~p71イ・ジェユンの話「背が高ければ慰安婦にされていた」)

この話が本当なら「女子勤労挺身隊として集められた人もいた」という事になるだろう。