河野談話を守る会のブログ2

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なぜ慰安所に通うのか?


戦前の日本社会 遊郭通いと慰安所通い::人は善き喜びが無い社会では悪しき喜びを覚える


      

      1、 思いやりの乏しい社会では休日が少ない

       それは金儲け至上主義から、従業員をこきつかおうとするからだ
       そしてそれは、彼らの拝む神々がマンモンの神々であったことと無関係ではないだろう


戦前の日本社会は、人権意識の乏しい社会であった。日本会議の右翼たちは 「敗戦後から今日に至る戦後レジーム」 を攻撃するが、では戦前のレジームはどうだったのか?
一言で言えば、”思いやりのない習慣”が蔓延している社会だったと言えるだろう。

赤松啓介によれば、大正の終わりのころの丁稚の労働は1日、14,5時間が当たり前だったという。

過労による欝病が心配だが、やはり 「これだけこき使われるのだから病気が出て当たり前」 だと書いている。また過労から脚気や肺病が流行し、丁稚や女中は放り出されて故郷に帰った者も多いという。そこで出て来るのが「女郎買い」である。

ともかく、それだけ長時間働らかされたのではたまったものではない。大店では7時、8時に閉店するとそれから2時間ばかり番頭や古い手代が師匠になってソロバンの勉強をさせた。そして9時、10時になると就眠ということになり、ほとんど自分の自由な時間はない。~(略)~すなわち食っては寝るだけでたまの休みに新世界あたりの安い活動写真館「映画」というのはかなり後になってからで、当時は略して「活動」といい、弁士の解説つきであるが、他に萬歳、これも「漫才」はずっと後だが、それくらいより娯楽がなかった。いや本当はあったので、まず第一は女郎買い、次は飲み屋の酌婦や淫売ということになり、芸妓というのはちょっと、丁稚手代級では無理である。『夜這いの性愛論』p190-p191)



長時間労働で他の楽しみも無いから、女郎買いに走るのである。

これとほぼ同じ構造が日本軍慰安所と兵の関係にもある。


吉見義明教授は、軍が慰安所を造った理由の一つとして「将兵の殺伐の気風の緩和」を挙げている。
従軍慰安婦p52-p55、

・・・(略)・・・生活利便設備は極めておそまつなままだったのである。加えて休暇も与えられなかった。欧米の軍隊は第一次大戦の経験から、一定期間の休暇を与えられていたが、日本軍は陸海軍とも一部を除いて戦時には休暇を与えていない。しかも兵営内では兵士の人権はまったく認められず、上官の厳しい監視と私的制裁が日常的に行われていた。
このような劣悪な環境の中で、泥沼の戦場に拘束され、いつ帰還できるかわからない状況に置かれた下士官や古参兵たちの不満がつのるのは当然であった。~(略)~
兵士たちが軍慰安所の中に一時的な安らぎと解放感を求めて行く背景には以上のような事実があった。(『従軍慰安婦』p53-p54)

まとまった休暇も無い生活で、慰安所に通うのである。


         2、初年兵の生活

陸軍初年兵が体験する生活はしばしば「地獄」と表現されており、兵士の人権はまったく認められていなかった。小便に行くにも「●●厠に行きます」と報告しなければならず、そうした徹底的に管理された環境の中で、私的制裁(イジメ)が横行し、加えて休暇もほとんど与えらていなかったのだ。いつ帰還できるかも分からないような状況の中で不満が募り、荒れていくのも当然だろう。

津山章作は『戦争奴隷』の中で、食欲過剰に悩まされた初年兵生活をこう書いている。

食欲の異常に旺盛となったもうひとつの原因は、読書も娯楽も家族との団欒も、全ての楽しみを奪われて、欲望と言う欲望が食欲一本に結集されたということも考えられる。 (『戦争奴隷』p46-47)

あらゆる楽しみを奪われると別の楽しみを人は探すようになるのである。そこで兵士たちの欲望は、戦地でできる事=略奪や強姦に向かうようになる。そしてそれを制止することは、その上官たちにもできなかった。

集結の途中でも兵たちはともすると作戦中と同じように、部落に入るとニワトリや豚を追いかけておかずにしようとした。民衆も馴れっこになっていて強く阻止しようとしなかった。それだけに兵の掠奪を防ぐのは骨が折れた。 (『戦争奴隷』p301)

兵士たちは、読書も娯楽も家族との団欒も、全ての楽しみを奪われていた。そうした環境下で欲求不満を増大させた人達は、強姦や掠奪に向かったのである。もちろん、強姦や掠奪が起こるのは皇軍だけではない。しかし第二次大戦で言えば、大抵の国の軍には数カ月にわたる長期休暇制度があった。元々キリスト教徒が多い国であれば、週に一度の休日は当然であった。人間には十分な休息が必要だと考えられていたのだ。奴隷でさえ日曜日の安息日が与えられていた。
ところがキリスト教を拒み続けた我が国では、明治維新前の江戸時代には奉公人が休日として休めるのは盆暮れ正月に限られ酷使されていた。それは店主にとって大切なのは、奉公人の健康ではなく「商売繁盛」だったからである。マンモンの神々に仕える彼らにとってマンモン以上に大切なものはあり得ないからだ。




<ウンチクを聞け>
    遊郭楼主が拝んでいた神々

 
遊郭の楼主には奇妙な風習があった。楼主の部屋を内証(内所)と呼ぶが、その部屋には撫牛(粘土で作った子牛)を布団の上に大事に供えてあり、楼主は暇さえあれば牛の偶像を撫でながら「千客」「千金」を祈っていた。
ある楼主は銀製の子牛の像を座側において呪文を唱えてなでおろしたという。彼らの祈願するところは、日本中の男が好色の遊客になることであろう。
彼らの内所の奥には、縁起棚が置かれ、そこに赤々と灯明がともされていた。その縁起棚には、張子の金精大明神の神体(男根)が据えられていた。彼らには男根が御神体であったわけである。その張子の御神体は、吉原遊郭に近い浅草の観音境内で売り出されていた。
 
『遊女ーその歴史と哀歌』北小路健


彼らの拝む神々はマンモン(富)の神々であって、それゆえにそこから生まれた風習は、金儲け主義一色となり、売られて来た女性たちを酷使した。それが「「マワし」が考案された理由であった。


 



ところが、日本では軍内でも休暇が与えられることは少なく、初年兵が初めて入営すると3ヶ月間休日無しという話がよくある。

水野晴夫は『日本軍とたたかった日本兵の中でこう書いている。

初年兵は朝から晩まで古年兵にこき使われた。隊の中では階級と入隊歴が全てであった。私たちは朝から晩まで上官の靴磨き、洗濯、部屋の掃除から食事の運搬までコマネズミのようにこき使われた。1日の内、30分も休めればよい方であった。夜ベットの中で毛布をかぶりすすり泣く声が聞こえることもあった。
(自殺者も多かったという。)

休憩をとらせないことに何かメリットがあるのだろうか?合理的には何もありもしない。しかし世の中の慣習として、「コキ使う」のが当たり前だったのである。

戦前の日本社会は、人権意識の乏しい社会であったし、それはまず陸軍に反映し、さらに今日戦前を理想としている安倍政権や自民党憲法案の人権意識の乏しさに反映している。彼らは等しく神々に仕える輩だからである。そしてそれは徴集された兵士や慰安所に放り込まれた慰安婦たちに反映していたのである。元慰安婦の話の中に半年間休みが無かったという話が出てくるのもそういう文面から捉えるべきである。


こうして、人を酷使する習慣が日本社会の中にはあったし、現在安倍政権が造った「残業代0法案」もその延長上にある。大切なのは人間であって企業ではない事さえ彼らには分からないのである。