河野談話を守る会のブログ2

ヤフーブログ閉鎖のため移住しました

<資料発掘>日本人も騙されて慰安婦にされた 「篤志看護婦募集」で・・・静岡の女性  軍はなぜ送り返さないのか?

<資料発掘>日本人女性も騙されて慰安婦にされた 「篤志看護婦募集」で・・・静岡の女性  軍はなぜ送り返さないのか?
救済処置をとるのが、当たり前ではないのか。

皇軍は、戦地で将兵の性処理のために「慰安婦制度」を造った。そしてその運用を管理したのである。ところがこの制度は、軍が看過する中で犯罪の温床となっていた。ここで書かれているような就業詐欺は【詐欺罪】であり、国外に連れて行けば、【国外移送目的誘拐罪】が適用される。

事実、日本の警察は海外の目もあり、「慰安婦制度」が始まるまではそれなりにちゃんと取り締まってはいたのである。(もちろん、日本独自の裏の世界の繋がりがあり、目こぼしを受けていた大物女衒もいたようだが)

ところが、1938年ころ皇軍が「慰安所」を造っていることを知った日本の警察は、女衒の誘拐じみた徴集行為の取り締まりをすこしづつ緩和して行く。

秦郁彦さえ書いているように、「陸軍省外務局とか内務局という自嘲的言葉もささやかれていたご時世に、軍の威光に逆らうのは所詮は無理である」慰安婦と戦場の性』p56)。

やがて起こった出来事について、宮尾登美子は、自らの生家を描いている岩伍覚書』岩伍にこう語らせている。

・・・・一時は根絶やしかと思わましたもぐりの業者が近頃ではまたおおっぴろげに横行しはじめ、あこぎな方法で軍隊の慰安婦を狩りだしているやに聞き及びます。
宮尾登美子全集』「岩伍覚書」p90~p91)


慰安婦」制度が出来たことで、取り締まりが緩和され、違法な女衒が活発に活動するようになったのである。

<取り締まりが緩和の過程の資料>http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64933746.html



濱本浩著『火だるま大佐』日本週報社、1957年
昭和17年11月、海軍報道班員に徴用され、任地ラバウルニューギニア

ラバウルの話

山の上の第八海軍病院で、36人の若い看護婦が、かいがいしく働いているという。

いろいろ、身辺の話題が出た後に、それまで沈黙を続けていた、日赤山形班の若い看護婦が突然、鼻にかかる東北訛で、「とても、気の毒なお話があるんです」と、発言した。

「それは―ひと月ばかり前のある午前、見知らぬ女が病院の受付に現われ、「ぜひ、院長さんにお逢いしたいのですが」と、恐る恐るいった。この基地に生活している日本の女で、病院勤務の看護婦と筆生以外は、パンパンと呼ばれる慰安婦にきまっていた。その頃、ラバウルには海軍用3か所と、陸軍用1か所の慰安所があって、みんなで30人ほどの慰安婦が勤めていた」

「院長室に通してみると、その女は突然、「私は、騙されました。お願いします、お願いします」と、声をあげて泣き出した」

「その女は、静岡の田舎の者で27歳になっていた。ある時、女の村へ、海軍の徴募兵と自称する軍服の男がやって来て、村役場に本部を置き、前線行の篤志看護婦を募集した。愛国の血に燃えていた田舎娘は、軍需工場へ徴用されるより、白衣の天使として軍病院で立ち働くほうが、はるかに理想的であったにちがいない。そこで勇躍して応募し、横須賀から、同志の娘達と輸送船に乗り込んでラバウルに到着してみると、看護婦というのは真っ赤な嘘で、その晩から客をとれと強いられた。泣く泣く奉仕はしたものの、娼婦を志願して来たものではないから「ぜひとも初志どおり、看護婦に採用して下さいませ、お願い致します」と、掌を合わせ、院長に嘆願した。院長は、その女の告白をきいて同情した。同情はしても、資格のないものを看護婦に採用するわけにはいかない。院長は、その理由を説明して、「まア、何をして働くのも、お国のためだから、辛抱しなさい」と、なだめた。が、その女は、あきらめかねるようすで、「それでは、雑役婦でも炊事係でも、何でもよろしいですから、病院へ使って下さい、お願いします」と、縋りついた。が、病院と慰安所は、所管がちがうので、おいそれと配置替えするわけにもいかぬ。いずれ機会を見て、司令部へ話をつけ、何とかしてあげるからと、慰めて、その日は引き取らすことにした。その女の勤めているところは、病院から12、3町もくだった、叔母山の中腹にある士官専用の慰安所であった。そこには20歳から40歳までの就業婦が、8人ばかり働いていた。その中には、この人達もやっぱり騙されて来た、母と娘の一組があった。その翌日、静岡の女はまた、てくてくと山を登って来て、洗濯物があれば洗わしてくださいと頼みこむ、ちょうど、ガダルカナルからの患者を大勢収容し、よごれものを山と積んであったところなので、病院でも喜んで手伝わし、幾らかの賃金を出したが、女は、そんなつもりで来たのではないからといって、どうしても受けとらず、翌日もまた勤めのひまを見て、てくてくと登って来た。それ以来毎日、昼間の暇な時間にのぼって来ては、患者のよごれ物を洗濯したり、庭の掃除をしたりしているのだった」(p82~p92)



海軍の徴募兵と自称する軍服の男がやって来て、村役場に本部を置き、前線行の篤志看護婦を募集した」というこの話が1957年には書かれていることを考慮しなければならないだろう。

朝鮮人や台湾人慰安婦の募集http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20140327/1395936622でしばしば証言されて来たことが日本人女性にもなされており、すでに1957年には書かれていたのである。