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「女子挺身隊」に関する読売新聞の記事







韓国では、1945年の終戦当時から、慰安婦の事を挺身隊と呼んでいた。
韓国在住の吉方べき氏によれば、1946年5月12日のソウル新聞ですでに
戦争中、日本人が負った最大の罪の一つとして、この地の娘たちを女子挺身隊または慰安部隊という美名のもとに、日本はもちろん、遠く中国や南洋などに強制的にあるいはだまして送り出した・・・

という記事があるという(『季刊戦争責任研究』第85号p22~p31、吉方べき 「韓国における過去の慰安婦言説を探る」)。
つまり、韓国では「挺身隊の名で連れて行かれた」という考えが戦争の時代から広く流通していたのである。

これに対して右派論壇では、「挺身隊は、1944年になって初めて施行されたのであり、工場などに連れていかれた女性なのだから、「挺身隊の名で連れて行かれた」というのは、嘘であり、混同である」と主張し、これが長らく朝日新聞攻撃の材料の一つにもなったのである。

つまり彼らは、「挺身隊」とは「1944年に施行された女子挺身勤労令によって動員された女子勤労挺身隊である」と規定したのである。

例えば、西岡力『闇に挑む』p253~p304日新聞と植村隆を攻撃しながら、

ここで問題なのは、「挺身隊という名で慰安婦にされたというあまりにも明白な事実無根の主張が出ている事だ。(P254)

筆者らが繰り返し書いているように、女子勤労隊制度はあくまで軍需工場等への労務動員であって、慰安婦とは何の関係もない。制度上はそうだし、実態としてもそうだ。(p262)


97年の1月、筆者も出演した「朝まで生テレビ」での討論で、伊健次・神奈川大学教授が挺身隊として慰安婦が動員されたという発言をして不勉強ぶりを自ら示したように、いまだに挺身隊制度を慰安婦と関連づけて考えている者も多い。(P262)

と書いている。
さらに、2014年2月6日号の『週刊文春』ではこうコメントした。
植村記者の記事には『挺身隊の名で戦場に連行され』とありますが、挺身隊とは軍需工場などに勤労動員する組織で慰安婦とは全く関係ありません。

また、秦郁彦は、慰安婦と戦場の性』でこう書いている。

    女子挺身隊と慰安婦の混同
両者はまったく別物であるにもかかわらず、久しく混同する風潮が続いた。
(中略)
日本人女子が女子挺身隊の名で強制動員されたのは、戦争末期の1944年8月からで、「女子挺身勤労令」(8月23日公布施行の勅令519号)により、農業要員を除く満12歳~40歳の未婚女子が対象とされた。(p366)

しかし、この規定は本当に正しいのだろうか?
韓国で慰安婦の事を「挺身隊」と呼んだからと言って、それがすなわち「女子挺身勤労令によって動員された女子勤労挺身隊」を意味しているのか?

こうした疑問が生じるのは当然であろう。そこで、本ブログでは、すでに探求し、答えを書いている。




「挺身隊の名で動員された」と書いていても、それは必ずしも女子勤労挺身隊を意味していないのである。

韓国の例もここに記述している。 ↓

さて今回発掘したのは、日本国内で挺身隊という言葉がいかに氾濫していたかを示す資料である。

「挺身隊」という言葉は、いろんな場合に使っていたのであり、「女子挺身隊」という言葉も、女子挺身勤労令」以前から使われていたのである。

右派の妄想的嘘に騙されない事が肝心である。


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太平洋戦争が始まったとたん、陸軍は「女子挺身隊」を造った。
この記事は読売新聞1942年1月9日


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読売新聞 1942年3月30日には東條総理大臣の勝子夫が女子挺身隊を激励したという話である


イメージ 3


これは、看護婦も「挺身隊」と呼んだという話
読売新聞1939年1月27日夕刊

イメージ 4


文部省が1万人の挺身隊を大陸に派遣したという話

読売新聞1939年4月18日7面



このようにして、「挺身隊」という名前が氾濫していたのでありいろいろな集団を「挺身隊」と呼んでいたのである。とりわけ国家への奉仕を挺身と呼び、しばしば軍の組織を「挺身隊」と呼んでいた。女衒が「軍の被服の仕事」であるとか「戦地の看護婦の仕事」「軍人の食事の世話」などと騙したような場合、それを「挺身隊」と呼んでも何の問題もありはしないのである。