フィリピン・マニラ市街戦における皇軍の住民虐殺
フィリピン・マニラ市街戦がよく分かる。
まずは中野 聡教授と荻上チキ氏のやりとりを聞てみよう。
戦後、最大の反日国家だったフィリピンで
一体皇軍は何をやらかしたか、我々は知らねばならない。
戦争の悲惨さと共に、皇軍の極悪非道がフィリピンを覆ったのである。
第2章 ラサール学校の虐殺
1945年2月12日(月)朝食を済ませた直後、爆撃を避けるために我々はみな建物の南側の会談の下に集まっていた。
そこへ20名の兵士を連れた士官が入ってきて、2人の使用人を拉致し、連れさった。5分後、二人は戻されて来たが、どちらも酷く傷ついていた。
ついで士官は何か命令を下した。
ただちに兵士たちは我々に銃剣を向け始めた。
男も女も子供たちも区別が無かった。若干の者はかろうじて上の階に逃げることができた。兵士たちは彼らを追いかけた。若干の人々は礼拝堂の入り口で刺された。他の者は同じく堂内で刺された。
誰かが士官に抵抗しようとしてもたちまち、ピストルで撃たれるか、白刀を浴びせられるに過ぎず、その結果若干の人々はさらに重い傷を受けた。
子供たちの中には2歳か3歳、さらにそれ以下の幼児すらも混じっていたが、それらの幼児たちも大人たちと同じ仕打ちに会ったのである。
死突を終えると日本軍は死体を階段の下に投げ込み、積み上げた。生きている人々の上に死体が重なった。則死した者は多くはなかった。
少数の者は1,2時間の間に息が絶え、その残りの人々は出血が甚だしいため、次第に衰弱して行った。
兵士たちは出て行き、やがて建物の外で飲んだり騒いだりする声が聞こえた。
午後の間、彼らはしばしば我々を監視するために入って来、犠牲者の苦痛を見て、笑ったり、嘲ったりした。
我々は夜にいたるまでそこにとどまっていた。その間に負傷者の多くが死んで行った。
我々は皇軍がやったことを忘れてはいけない。