戦地のお金の造り方 【慰安所通い資金調達法】
☆ 金を持っている兵士が多くいた
漢口兵站司令部付軍医であった長沢健一さんによれば、「第一線の兵隊は金持ちが多かった」という。
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平時に略奪すれば、強盗として刑務所に行くことになるだろうが、戦地ではどさくさにまぎれて、兵士の略奪も看過されていた。三笠宮崇仁親王は1943年春、大会堂に軍幹部以下数百人を集め、「略奪暴行を行いながら何の皇軍か。現地の一般民衆を苦しめながら聖戦とは何事か」と叱責したというが(小川哲雄 『日中終戦史話』http://gendai.ismedia.jp/articles/premium01/47003)、なんせろくな食糧も携帯せずに中国大陸を蹂躙した皇軍には「糧を敵に借る」という方針さえあり、戦闘を繰り広げながら各地で食糧・物資を略奪し、占領後は各村落自治体に食料・物資・建物や女性を供出させたのであるhttp://www.geocities.jp/yubiwa_2007/gunkyouseirenkou.html。
☆☆ 慰安所に行くために
読売新聞もこう伝えている。
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つまり、慰安所でべっぴんを買うには、3円必要だから、村人を殺して、泥棒したという事である。
慰安所を発案した将校たちは、兵に頻発する強姦対策を念頭に置いていた。それは強姦が住民の反感を呼ぶことを理解していたからだhttp://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64541872.html。
☆☆☆ 将校の金造り「横流し」
将校たちも負けてはいない。
つまり、値段の高い粋香園に通うお金を、筆者以外の将校たちは、「軍需品を、横流し」して造っていたのである。まあ、そうでもしないと連日の宴会なんて不可能であろう。
粋香園での将校の乱痴気ぶりについては、高木俊朗さんも『抗命ーインパール2』でこう書いている。
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「高級将校が毎夜、内地と同じような酒席を催し、盛況を極めていた」そうだ。
これで戦争に勝ったら、奇跡だな。
こんな連中が死んだからと言って、何で「神」として尊敬し、顕彰・礼拝しなきゃならんのか?
家族の人が、地獄で苦しんでいる先祖のために慰霊をすべきである。
どこかのウヨクな人々によると、こういう人達が戦ったから、今日の日本の繁栄があるのだそうだ。”バカを言うな”というしかない。
戦後の日本の繁栄は、疫病神というしかない皇軍が滅んだことによるのである。ところが最近になって、あの戦争が”聖戦だった”なんていうおバカが増え、また軍隊を造りたがっているらしい。
☆☆☆☆ 料亭での宴会の日々
高級将校のこの手の乱痴気の蔓延は有名であり、様々な著作に残されている。
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辻政信は、日本を敗北へと導いた作戦参謀の一人だが、こういう点では潔癖であったようだ。しかし、潔癖な性向の持ち主はそれほど多くは無く、各占領地で料亭は栄え、高級将校たちは公費か横流しか、で宴会を繰り広げていた。
☆☆☆☆☆ 戦国大名みたいな
小平喜一さんは『湖南戦記』で、中国・湖南での話をこう述べている。
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最近舛添知事が公金を使って、買い物をしたというのでメディアに叩かれていたが、これはもう公金を使ったどころではない。軍を私物化しているのである。酒と女に対する欲望に飽きることのないと評されたビルマの牟田口軍司令官やミートキーナ守備隊の連隊長丸山大佐のように立場を利用し、女性を囲っていた軍上層部の人間は多い。
彼らは、一体何のために戦争をしたのだろうか?
<聞いて呆れる将校たちの贅沢三昧>
戸石泰一 『消燈ラッパと兵隊』 KKベストセラーズ、1976
インドネシア・スマトラのブキ・チンギに駐屯する第25司令部の話
中将・田辺盛武、開戦からガダルカナル戦あたりまでの参謀本部の次長であった」「かれだけは、『愛人』を持たなかった。料理屋にも行かなかった」
(p277~p278)
「高級将校の中には、病院にチャンタ(インドネシア語・愛人)に会いに行き、その煙草や酒を差し入れするばかりか、共に外泊する者まであるという。また、偕行社のウエイトレスの中にも、やはり将校のチャンタにさせられてしまった娘もいて(もちろん、まじめな恋愛関係にあるものもあったが)妓たちとの間に、複雑な対立があるとも言われた」
(p280)
肥田真幸 『青春天山雷撃隊ーヒゲのサムライ奮戦記』 光人社、1983
昭和20年7月、鈴鹿。
「私は電報を工藤通信長から受けとると、胸をとどろかせて司令の宿舎へと車を走らせた。司令はちかくの河口の岸辺にポツンとはなれた一軒家に夜はおられると聞いていたが、まさに小じんまりとした家であった。私は玄関の戸をたたき、『司令、飛行隊長、重要電報をとどけにきました!』と大声で呼んだ。すると、でてきたのは意外にも服装、物腰でじきにそれとわかる若い女であった。太った司令は、そのあとを浴衣姿で奥からでてきた」
(p214)
半藤一利 『日本参謀論』 図書出版社、1989
「昭和陸軍の功罪」
「南方にいたある師団長は、女を2人だか3人だか囲っていて、戦争末期に『衛生部品一式』というような名目をつけて(笑)、飛行機で内地へ逃がしている。こういう人たちが少なくなかったんです。麻雀やダンスにばかりうつつを抜かす軍司令官もいた。兵隊さんたちは、みんな見ていましたからね」
(p88)
田村真作 『愚かなる戦争』 創元社、1950
朝日新聞記者
北京のここかしこに、日本内地の料理屋なぞ及びもつかない大きな料理屋が建ちならんでいた。畳も柱もみんなはるばる日本から運んで来てつくらせた純日本風のぜいたくな建物だった。この高級料理店では、連日連夜どんちゃんさわぎが続いていた。お客は、軍司令部の軍人と興亜院の官吏と国策会社の重役だった。――日華事変の正体がはっきりと現れていた
(p60)
日本戦没学生記念会編 『第二集 きけ わだつみのこえ』 岩波文庫、1988
17年2月、応召入隊、19年5月、中支で戦死した陸軍中尉の従軍手帳
中国
「4、内務」「初年兵はまだいい、食欲だけで精いっぱいだから。北支軍現地中隊の現況を言おう。駐屯地においては毎日毎日酒と懐郷とののらくらした生活。幹部はP屋と麻雀に夜を更かす。下士官は下士官で、兵は兵で、それぞれ眼前瞬間の享楽だけを求め空しい除隊の日数を数えている」
(p181)