河野談話を守る会のブログ2

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戦地のお金の造り方 【慰安所通い資金調達法】




             ☆ 金を持っている兵士が多くいた

漢口兵站司令部付軍医であった長沢健一さんによれば、「第一線の兵隊は金持ちが多かった」という。
                         
その料金は、兵站と後方参謀と協議の上、つぎのように定められた。登楼時間30分で、兵は1円、下士官1円50銭、将校・軍属は1時間で3円。宿泊は将校、同待遇軍属のみで10円とした。

兵隊の場合の料金は、前記のように30分1円であるが(実際はその半分の時間もなかった)、兵隊の給料の8円50銭にくらべても、当時の内地の労働者の日当が1円未満であったことにくらべても、けっして安くはなかった。しかし、第一線の兵隊は金持ちが多かった中国の流通紙幣を雑嚢一杯にぎっしりとつめている兵隊はざらだったし、一般に大洋銀といわれる銀貨も、数多く持っていた。いずれも『徴発』したものである。

(長沢健一 『漢口慰安所図書出版社、1983、p53~p55)



平時に略奪すれば、強盗として刑務所に行くことになるだろうが、戦地ではどさくさにまぎれて、兵士の略奪も看過されていた。三笠宮崇仁親王は1943年春、大会堂に軍幹部以下数百人を集め、「略奪暴行を行いながら何の皇軍か。現地の一般民衆を苦しめながら聖戦とは何事か」と叱責したというが(小川哲雄 日中終戦史話http://gendai.ismedia.jp/articles/premium01/47003なんせろくな食糧も携帯せずに中国大陸を蹂躙した皇軍には「糧を敵に借る」という方針さえあり、戦闘を繰り広げながら各地で食糧・物資を略奪し、占領後は各村落自治体に食料・物資・建物や女性を供出させたのであるhttp://www.geocities.jp/yubiwa_2007/gunkyouseirenkou.html

こうした中で、兵士たちが個人的な欲望から略奪・強姦行為を働いても、たいていの場合誰に咎められる事もなかった。殺してしまえば憲兵に訴えられることもないからである。


      ☆☆ 慰安所に行くために

読売新聞もこう伝えている。
                         

「東洋鬼」の章
昭和14年から4年間、中国各地を転戦した兵士の話

「突撃して勝ったとき何をするかと言えば、どろぼうするか女をやるしかねえんじゃもん、われわれ20や21の者(もん)には。突撃する、女をやれる、どろぼうできる……。何が天皇陛下万歳じゃ。それが事実じゃもん。それが、わしらの青春じゃったんだもん……」あんたにはわかるまいが、というような口調で、男は中(読売記者)に言った。(p121)

どうして村人を殺(や)ってまでどろぼうするのか。食うことと、慰安所に行くためじゃった。べっぴんを買うんには3円いるんじゃけん。給料は7円20銭だけじゃった」日本を出発する前、男はそう言った。(p149~p150)

(読売新聞大阪社会部 『中国侵略ー新聞記者が語りつぐ戦争6』 角川文庫、1985年)

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つまり、慰安所でべっぴんを買うには、3円必要だから、村人を殺して、泥棒したという事である。

慰安所を発案した将校たちは、兵に頻発する強姦対策を念頭に置いていた。それは強姦が住民の反感を呼ぶことを理解していたからだhttp://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64541872.html

しかし、慰安所を造ったからといって強姦は減らなかったし、むしろ皇軍慰安所の存在が様々な犯罪行為を誘発していたことが分かる。


   
          ☆☆☆ 将校の金造り「横流し

将校たちも負けてはいない。

陸大卒業のエリートとしてビルマ方面軍参謀をしていた後勝さんの書いたビルマ戦記ー方面軍参謀 悲劇の回想』にはこんな記述がある。

                         

戦後ある会合で、「戦時中に私は、部付将校を連れて偕行社に行き、月に一度か二度すき焼きを食べたら、月給は空っぽに使い果たしたのに、値段の高い粋香園が、連日繁昌していたのは理解できない」と言ったところ、「ガソリンやその他の軍需品を、少し横流しすれば悠々と1か月遊べたのに、方面軍の後方主任がそんなことを知らないようでは、戦さに負けるのも無理はない」と笑われて、まったく二の句がつげなかった。

(ビルマ戦記ー方面軍参謀 悲劇の回想』p174)


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つまり、値段の高い粋香園に通うお金を、筆者以外の将校たちは、「軍需品を、横流し」して造っていたのである。まあ、そうでもしないと連日の宴会なんて不可能であろう。

粋香園での将校の乱痴気ぶりについては、高木俊朗さんも『抗命ーインパール2』でこう書いている。

                    
すい(正式には漢字)香園というのは、ラングーンで一番大きい日本料亭であった。たくさんの芸者をおいていた。方面軍司令部とか、各兵団の高級将校が毎夜、内地と同じような酒席を催し、盛況を極めていた。
「高級参謀の官邸は、すい香園の庭つづきだそうだな」
「それは兵隊のうわさです」
青木大佐は弱って、しきりにあごひげをなでた。佐藤師団長が、そうしたことを知っているは、兵隊のうわさを聞いたのではなかった。インパールの戦場で、英軍戦車が日本軍に近づいてきて投降を勧告した。その時、方面軍司令部の幕僚の乱行ぶりを伝えて、「あなたがたが飢えている時に、方面軍の幕僚は庭つづきのすい香園の芸者のところにかよっていました。兵隊は、方面軍参謀といわないで、すい香園参謀と呼んでいました。これでは米も弾丸も送ってこないはずです。」

( 高木俊朗 『抗命ーインパール2』文春文庫、1976、p255)

高級将校が毎夜、内地と同じような酒席を催し、盛況を極めていた」そうだ。

これで戦争に勝ったら、奇跡だな。

こんな連中が死んだからと言って、何で「神」として尊敬し、顕彰・礼拝しなきゃならんのか?

家族の人が、地獄で苦しんでいる先祖のために慰霊をすべきである。

どこかのウヨクな人々によると、こういう人達が戦ったから、今日の日本の繁栄があるのだそうだ。”バカを言うな”というしかない。

戦後の日本の繁栄は、疫病神というしかない皇軍が滅んだことによるのである。ところが最近になって、あの戦争が”聖戦だった”なんていうおバカが増え、また軍隊を造りたがっているらしい。



      ☆☆☆☆ 料亭での宴会の日々

高級将校のこの手の乱痴気蔓延は有名であり、様々な著作に残されている。

南支派遣軍で、宣撫用伝単・ポスター作成していた漫画家の清水崑さんは、南支派遣軍高級将校の宴会三昧生活をこう書いている。

                         

広東における高級軍人の生活の乱れが目に余ってきたのだ。軍務が夕方に終るとそれぞれ料亭やカフェーに車を走らせ、横づけにして、深夜まで女たちを侍らせて飲めや歌えである。運転手の兵隊は自動車といっしょにそとでいつまでも待たされている。将官、佐官級は連夜、途方もない機密費の大散財だ。

(大宅壮一編 『続・わが青春放浪記』 春陽堂書店、1958、「虚しさの中の右往左往」 、p20~p21)

機密費というのは元は税金である。

今村均陸軍大将の今村均回顧録によると、昭和11年にはまだ満州の参謀であった辻政信大尉は、軍の参謀たちが、「ほとんど毎晩のように公費で酒食していること」に腹を立て、禁止を迫ったという。

           
着任半年ほどののち、参謀の一人辻政信大尉が、夜分私の官舎にやって来て、次のように云う。『あなたは、自分ひとりが料理屋に行かないことで、自らを安んじていますが、かようなことは、実に消極の行為です。なぜはっきりと“軍司令部将校は、私費を以ってなら格別、公費をもって市中料理屋に人を招くことは、許されない”と禁じないのです。軍の参謀たちが、ほとんど毎晩のように公費で酒食していることを、軍隊の将兵は憤慨しており、とくに軍の機密事項が、酒楼での参謀の口から女の耳に、女の口から一般市民の耳に、筒抜けになっております。これはどうしても禁ずべきことです』。熱血男子は、司令部の弊風を力説してやまない。『よし。禁じよう。けれど毎週のように東京からの要人が出入し、幕僚がこれ等と会食の要があることは認められる。今後はそれらはすべて、公費で軍人会館でやらせることにし、市中料理屋での公費宴会は、やめさせることにする』。翌日板垣軍参謀長にはかってみて、その同意を得て、『公費会食の件』という達しを軍司令部内職員全部に示した。

(今村均回顧録』 237

辻政信は、日本を敗北へと導いた作戦参謀の一人だが、こういう点では潔癖であったようだ。しかし、潔癖な性向の持ち主はそれほど多くは無く、各占領地で料亭は栄え、高級将校たちは公費か横流しか、で宴会を繰り広げていた。




    ☆☆☆☆☆ 戦国大名みたいな

小平喜一さんは『湖南戦記』で、中国・湖南での話をこう述べている。


すでに50の坂を越えた新旅団長は、前任者に輪をかけた、特権意識過剰の我利々々亡者であった。着任して半月も経たぬうちに、夜伽の女が欲しいと言い出した。戦地へくれば、軍の高官に酒と女は付きものであると、率先して範を垂れたのは揚子江岸にあった39師団参謀時代からの慣習ででもあるかのように平然として言い出すのであるから、緊迫した戦局をどう考えているのかと疑いたくなるような感覚の持ち主であった。旅団長閣下の欲しいということは即、命令であった。忠義面をした副官は早速、治安維持会に命令して女を準備させた。人身御供になったのは16歳にも満たぬ花も蕾の姑娘であった。そして『おれはサックなんか使うのは嫌いだから病気の有無をよく調べろ』と命じた。止むなく、軍医はこの命令に従ったはずであるが、この姑娘はすごい性病罹患者であると言ったら、好色閣下はどんな顔をしたであろうか。旅団長閣下はこの稚い娘をことのほか気に入って、3日にあけず通っていたらしい。ある時、愛妾の衣装を新調せしめ、その代金20数万元を主計官に請求した。インフレが昂進していたとはいえ、その金額はあまりにも大金であった。止むを得ず、主計将校は砂糖等の糧秣を中国人に横流しして金を工面したらしい。

(『湖南戦記』116)

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最近舛添知事が公金を使って、買い物をしたというのでメディアに叩かれていたが、これはもう公金を使ったどころではない。軍を私物化しているのである。酒と女に対する欲望に飽きることのないと評されたビルマの牟田口軍司令官やミートキーナ守備隊の連隊長丸山大佐のように立場を利用し、女性を囲っていた軍上層部の人間は多い。

彼らは、一体何のために戦争をしたのだろうか?



<聞いて呆れる将校たちの贅沢三昧>
戸石泰一 『消燈ラッパと兵隊』 KKベストセラーズ、1976
インドネシアスマトラのブキ・チンギに駐屯する第25司令部の話

中将・田辺盛武、開戦からガダルカナル戦あたりまでの参謀本部の次長であった」「かれだけは、『愛人』を持たなかった。料理屋にも行かなかった」
(p277~p278)
「高級将校の中には、病院にチャンタ(インドネシア語・愛人)に会いに行き、その煙草や酒を差し入れするばかりか、共に外泊する者まであるという。また、偕行社のウエイトレスの中にも、やはり将校のチャンタにさせられてしまった娘もいて(もちろん、まじめな恋愛関係にあるものもあったが)妓たちとの間に、複雑な対立があるとも言われた」
(p280)



肥田真幸 『青春天山雷撃隊ーヒゲのサムライ奮戦記』 光人社、1983

昭和20年7月、鈴鹿
「私は電報を工藤通信長から受けとると、胸をとどろかせて司令の宿舎へと車を走らせた。司令はちかくの河口の岸辺にポツンとはなれた一軒家に夜はおられると聞いていたが、まさに小じんまりとした家であった。私は玄関の戸をたたき、『司令、飛行隊長、重要電報をとどけにきました!』と大声で呼んだ。すると、でてきたのは意外にも服装、物腰でじきにそれとわかる若い女であった。太った司令は、そのあとを浴衣姿で奥からでてきた」
(p214)


大沢清 『フィリピンの一日本人から』 新潮社、1978

フィリピン・マニラ。
「その頃(昭和19年9月)、南方軍総司令官の寺内寿一元帥はマニラホテルに泊っていた」「軍の命令でマニラホテルの支配人になっていた坂本徳次さんは」「ある時、『寺内元帥は2週間のメニューをつくらせて、毎日違った特級料理を並べなければ承知しません。酒もフランスの極上でなければ駄目なんです。本当にこれにはほとほと弱っています』と私に語ったことがあった」
(p8)



半藤一利 『日本参謀論』 図書出版社、1989
「昭和陸軍の功罪」

「南方にいたある師団長は、女を2人だか3人だか囲っていて、戦争末期に『衛生部品一式』というような名目をつけて(笑)、飛行機で内地へ逃がしている。こういう人たちが少なくなかったんです。麻雀やダンスにばかりうつつを抜かす軍司令官もいた。兵隊さんたちは、みんな見ていましたからね」
(p88)


田村真作 『愚かなる戦争』 創元社、1950
朝日新聞記者

北京のここかしこに、日本内地の料理屋なぞ及びもつかない大きな料理屋が建ちならんでいた。畳も柱もみんなはるばる日本から運んで来てつくらせた純日本風のぜいたくな建物だった。この高級料理店では、連日連夜どんちゃんさわぎが続いていた。お客は、軍司令部の軍人と興亜院の官吏と国策会社の重役だった。――日華事変の正体がはっきりと現れていた
(p60)


日本戦没学生記念会編 『第二集 きけ わだつみのこえ』 岩波文庫、1988
17年2月、応召入隊、19年5月、中支で戦死した陸軍中尉の従軍手帳
中国

「4、内務」「初年兵はまだいい、食欲だけで精いっぱいだから。北支軍現地中隊の現況を言おう。駐屯地においては毎日毎日酒と懐郷とののらくらした生活。幹部はP屋と麻雀に夜を更かす。下士官下士官で、兵は兵で、それぞれ眼前瞬間の享楽だけを求め空しい除隊の日数を数えている」
(p181)