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「身分も軍属である」=忘備録として=



軍司令官官邸の裏に小さい神社があった。『大義神社』と墨痕鮮やかな標柱が立っている。おもしろい名前だ。『小義神社』というのがどこかにあるような気がする。
 六月八日、初の月例祭に参拝した。司令部の将兵全員とバンコクの居留民代表が朝早くからお詣りする。
 神籬(かみがき)の内に、拝殿に向かって右側に将校が、左側には居留民代表が居並び下士官や兵は鳥居の外で並んだ。
 召集将校の中に本職の神官がいる。白装束、烏帽子の謹厳な姿で祝詞(のりと)をあげている際に、前に向き合っている一群の若い女性たちがしきりに対面の将校にモーションをかけている。神域に不似合な光景であった。
 帰ってから調べてみると、この若い女たちは将校慰安所の女であり、偕行社の給仕であった。
 彼女らもある意味において、それぞれの役割を果たしているのであろう。身分も軍属である。     
           
辻政信『潜行三千里』より)

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                                        (画像はアマゾンから)


ここで辻政信は、神社に慰安婦がいる事を不思議がり、「神域に不似合な光景であった」と書いている。

しかし、このブログの継続的読者はご存じのはずだが、元々遊郭は、神々への奉仕として、神社から発祥している。

住吉大社の「卯の葉の神事」のみならず、古代には多くの神社の祭りとなれば采女出身の阿曽比女や宇加礼女、傀儡、白拍子、加賀女等の遊女が主役となり、賑わっていた。また遊女を具して降臨した播磨の鎮守賀茂神のように、ここが遊郭の起源であると謳う神社もある。

そこで、遊郭業者たちは、公娼は我が国体に立脚して、神の御威光の下に定められたる制度である。」と嬌声をあげたのであった。

こうして、多くの神社の門前町には、遊郭街が形成され、南の果てから北の果てまで、日本国内には神社と遊郭が無いところは無い、という国家が生まれ、これが従軍慰安婦制度形成の土壌となっているのである。


それゆえに、神域に不似合な光景」どころか、それは古代から日本ではよく見られる光景であった。


辻政信のこうした神社に対する無知さはあるにしても、軍の中枢部にいて、参謀本部付となり、第一課として戦争指導し「作戦の神様」とまで賛美された辻が、調べてみて「身分も軍属である」と断定して述べている以上、軍属であると考えるのが自然である。
少なくとも、タイには「軍属の慰安婦がいた」と言えるだろう。例えば、慰安所を管理をしていたのが兵站部であるにしろ、憲兵であるにしろ、辻のような軍上層部に位置する人物に聞かれた場合、隠す必要もなく事実を答えるだろうからだ。ただの従軍記者が調べようとしたなら、慰安所に関することは軍の機密事項になっていたので答えないどころか、むしろ取り調べられる可能性もあったわけだが。

慰安婦が軍属であった」と明記している著作には、元慰安所経営者の家族が書いた従軍慰安所〈海の家〉の伝言 [海軍特別陸戦隊指定の慰安婦たち]』もある。

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また、「慰安婦は無給の軍属であった」と政府が答弁した資料はここに掲載している。↓